カテゴリ:映画/TVドラマ( 24 )

2006年 05月 14日
妖怪大戦争
f0070556_20133784.jpgCSチャンネルで妖怪大戦争を観る。
〝天才〟三池崇史マジック!
またしてもやられたという感じだ。
SPEED主演の『アンドロメディア』もそうだったが、三池監督作品はそれがアイドル映画だろうが大作だろうがおかまいなし。自由奔放な作風は変わらない。いつだって撮りたいように撮っている。それでいて商業映画のツボはしっかり押さえており、偏狭な作品主義には決して陥っていない。時に人を食ったような斬新な演出が観客を置き去りにすることもあるが、そのケレン味は慣れるとやみつきになる。
映画全体のSFXにはしっかりお金もかかっていて、クライマックスの120万妖怪が東京へ集結するスペクタクルシーンなどは圧巻。ところが、もっとリアルな造形だって十分制作は可能だったはずなのに、主役の妖怪たちの特殊メイクはどれも脱力するくらいチープ。おまけに阿部サダヲ演じる河童の川太郎が連発するコテコテギャグなどはまるでドリフターズ。劇団☆新感線の芝居をそのまま映画にしたようなノリだ。
f0070556_20145699.jpgしかし、たぶん、おそらく、この作品はそれでいい。妖怪は人間界のすぐ隣にいて、幽霊や化け物のように人を呪うこともなければ殺すこともない。異形だが無邪気な存在。劇中、古代先住民族の怨念の化身「加藤保憲」(帝都物語のあの魔人)に向かって川姫という妖怪が言う。「わたしは人間を怨まない。怨念は人間の証。わたしはそこまで穢れたくない」と。そうなのだ。妖怪より、よっぽど人間の方がグロテスク。三池監督が妖怪に怪物的リアリティを持たせなかったのは、至極当然なのだ。
それにしても、タイトルは妖怪大戦争だが、大集結する妖怪どもは皆、野次馬の物見遊山。その辺りに妖怪気分が出ていて非常に面白い。元々怨念をもたない妖怪たちにとって、戦いは祭でしかない。それがまたいい。
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by leicacontax | 2006-05-14 20:21 | 映画/TVドラマ
2006年 04月 20日
決闘高田の馬場(原題/血煙高田の馬場)
f0070556_0251612.gif昨日、CS日本映画専門チャンネルで録画してあった「決闘高田の馬場(原題/血煙高田の馬場)」(1937日活映画/マキノ正博・稲垣浩監督/阪東妻三郎主演)を観た。
この映画は、先日、パルコ歌舞伎として上演された「決闘!高田馬場」の事実上の原作。舞台の作・演出にあたった三谷幸喜は、少年時代に観たこの映画の記憶からインスピレーションを得たと明言しており、映画も舞台も、最大の見所は伯父の窮地に駆けつける主人公・中山安兵衛(のちの堀部安兵衛/忠臣蔵四十七士の一人)の〝韋駄天走り〟(いだてんばしり)のダイナミズムである。

舞台における安兵衛の走りは苦難と苦悩に満ちている。酒と喧嘩に明け暮れる無頼生活で身も心も荒み、剣の腕、体力、気力、すべてにおいて昔日の面影はなく、幾度も走るのを諦めようとする。その度、安兵衛を慕う町人達が身を捨てて彼を叱咤激励。多くの犠牲を踏み台に、ようやく、安兵衛は逃れられぬ己の〝道〟(天命)を受け入れる。走りは、イコールそこに至るまでの〝行〟として描かれていた。

ところが、映画にはそんな苦難は欠片も描かれていない。
ひたすらの活劇。走りとチャンバラ。〝疾走感〟ただそれだけを追求。呆れるくらいの潔さなのだ。
といって、人間の関係性を軽視した作りになっているわけでもない。上映時間51分。細かなドラマを描いている暇はない。だが、映画そのものが決して腰を落ち着けることなく走りながら、無駄のない構成と人物配置の妙だろう、主人公を取り巻くドラマが簡潔かつ的確に語られている。このスピード感と語りの巧さは、さながらよく出来た〝ラップ〟のような気持ちよさ。69年も前に作られた映画は画も音も劣化は否めない。アクション(チャンバラ)もリアリティより様式の美しさに重きが置かれている。それでも、それらが今の映画にはない味として楽しめてしまうほど、この作品はモダンで爽快だ。

ちなみに、同じ頃に製作された日本映画に「人情紙風船」(山中貞雄監督)という傑作があるが、こちらは徹底してハードボイルドで「高田の馬場」とは対極の作品。カメラやフィルム等のハードの性能は現在とは比較にならない。それでも、両方の作品を観れば当時の日本映画の技術レベルと志の高さがよくわかる(アメリカ映画でも、史上最高の作品と呼ばれる作品「市民ケーン」「風と共に去りぬ」「カサブランカ」はこの頃に作られている)。
映画は見た目には進化したかにみえる。が、満足ではない製作環境下(しかも当時は戦時下という非常時)、知力と体力を凝らして製作された作品の厚みの前、安易なドラマとテクノロジー頼みの昨今の映画は、いかにも骨抜き。化粧だけが上手で頭の悪い(それでいて打算的な)女のように思えてくる。
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by leicacontax | 2006-04-20 00:35 | 映画/TVドラマ
2006年 04月 02日
あずみ2〜Death or Love
f0070556_23142344.jpgWOWOWにて「あずみ2」鑑賞。
金子修介監督作品ということで期待していた。だが、いまひとつノリきれず。
ダイナミックに弾けまくっていた北村龍平監督の前作「あずみ」との違いを、続編では主人公あずみの苦悩、人間ドラマで表現したかったと聞く。
しかし、使命(戦のない世の中を実現するという大義)のため兄弟同然に育った仲間を殺すという前作で描かれたエピソードを幾度もフラッシュバックさせて苦悩のドラマを演出したことで、かえって強く前作を意識させる結果となってしまった。

そもそも、人間凶器として育てられた主人公が、仲間や自分にかかわる者たちの死を引き受け、背負い、それらよりも重い使命のために闘い続ける物語。苦悩はおそらく最後まで消えることのないテーマであり、前作の疾走感と爽快感はその苦悩を振り払おうと、あずみが斬って斬って斬りまくるところにあった(それが切なさにもなって伝わってきた)。
その、すでに走り出している主人公を、また話の振り出しに引き戻してもドラマの停滞を招くだけ。それでもあえて引き戻すというのなら、最後までアクションを封印して人間ドラマ一本でいく位の覚悟がなければ前作は越えられないし、違いも出せない。とくに前作は奇想天外なアクションが売りだったのだから。

今回もアクションシーンはよく描けている。しかし、新たなドラマの根幹をなすはずの、あずみを救う登場人物達との関わりが希薄なため、せっかくのアクションシーンも活きていない。あずみと敵対する忍者達の性格もよくわからない(とくに高島礼子の演じる役)。加えて、忍術のギミックの使い方もドラマ重視だという割には前作を踏襲して劇画チック。前作が劇画的な嘘を徹底的に映像化して爽快だったことを意識してのことかもしれないが、結果的に人間ドラマとアクションのどちらも中途半端。前作のイメージからも逃れられない原因となった。あのガメラやゴジラに鮮やかな新解釈を施した金子監督とは思えない平凡な作品。上戸彩の「あずみ度」が増していただけに、ちょっと残念だった。

ゴジラとあずみの監督交代が話題になった作品でもあったが、北村龍平監督の「ゴジラ・ファイナルウォーズ」がよくも悪くもそれまでのゴジラ映画とは一線を画した作品になったのに対し、金子修介監督の「あずみ2」は独自の世界を作り上げるには至らなかった。
軍配は北村監督に上がった。
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by leicacontax | 2006-04-02 23:53 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 31日
オペラ座の怪人
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WOWOWにて「オペラ座の怪人」鑑賞。
音楽も映像も美しい。有名な同舞台を忠実に映像化した作品でもあるらしい。
しかし……長〜いMTVを観たような感じ。正直、そんな印象しか残らなかった。

少し前、深夜に映画の「ラ・マンチャの男」(1972年イタリア映画。アーサー・ヒラー監督。ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレン主演)を観て、それから帝国劇場の舞台へ足を運んだことがあった。
映画は想像していたよりも遥かに素晴らしかった。
そもそもミュージカルというジャンルと中世ヨーロッパという時代背景が苦手で、なおかつ、昔、映画雑誌などで見た脂っこくて埃っぽいスチール写真の感じが耐えられなかった私としては、まさに目から鱗。生まれついての食わず嫌いを克服したような驚くべき収穫だった。音楽も映像も新鮮でまったく古くない。それになにより、濃すぎて、どうしても子供の頃は受けつけなかったヒロイン・ダルシネア役のソフィア・ローレンの美しいこと! 美意識もまた大人になるものなのだとつくづく思い知った。
映画に衝撃を受けた分、なおさら舞台を観る時には緊張した。松本幸四郎にはもちろん期待していたが、それ以前に日本人が外国人の扮装をして翻訳した歌詞で唄う……私はどうしてもそれが駄目だった。さらに、映画で見直したソフィア・ローレンの役が松たか子というのも不安で仕方なかった(その時、私はまだ松たか子の女優としての華と力量を知らなかったのだ)。
はたして、それらの不安は舞台が始まるや瞬く間に消え去った。翻訳物ミュージカルに対する偏見と拒否感を、その舞台は完全に払拭してくれた。

そんなわけで、「オペラ座の怪人」には少なからず期待していた。
学生の頃に観たブライアン・デパルマ監督の「ファントム・オブ・パラダイス」に強烈な印象を受けたこともあって(「ファントム〜」も「オペラ座の怪人」を下敷きにしていた)、映画の始まりにはわくわくした。
結果として、「オペラの座の怪人」は映像の中のオペラ座から私を一歩も外へ連れ出してくれなかった。閉じた世界の閉じた物語ではある。が、胸を打つ作品というのは、必ず、そこではないどこかへ連れて行ってくれる。それが余韻となって心に残り、いつまでも熟成を続けて心を豊かにしてくれるものなのだ。残念ながらこの映画の印象はエンドロールが終わる前に跡形もなく消えてしまった。
金を湯水のように注いで作ったであろう豪華絢爛なCG映像には、チープなカルトムービーの扱いしかされていない「ファントム・オブ・パラダイス」に溢れていた切なさや哀しみは映っていなかった。
同じ仮面舞踏会の場面でも、スタンリー・キューブリック監督の遺作となった映画「アイズワイド・シャット」の奇妙な空気感は、なぜか脳裏に焼きついて離れない。
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by leicacontax | 2006-03-31 19:48 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 14日
蒲田行進曲
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80年代、日本映画はどん底の時代だった。
東映、東宝、松竹のメジャー3社は製作本数を大幅に減らし、70年代にいちはやくロマンポルノに活路を見出して路線転換していた日活(にっかつ)はそれでもじり貧の一途をたどり、角川映画だけがひとり気を吐いている、そんな頃・・・それでも映画の世界に憧れ、大学でせっせと8ミリフィルムの自主映画を製作していた学生たちに、1本の映画が夢と勇気(ちょっぴり切なさを伴った)を与えてくれた。
「蒲田行進曲」。監督は「仁義なき闘い」の深作欣二。原作・脚本は、当時、一世を風靡していた、つかこうへい。燃え尽きる寸前の蠟燭が最期の輝きを放ったかのような、そんな映画だった。

この映画の不思議なエネルギーの元は「ねじれ」である。
どん底の時代に、あえて日本映画黄金時代の空気を蘇らせた架空の映画界を舞台にした設定。主演の銀幕スター(日本映画全盛期は絶対的スターシステムの時代でもあった)「倉岡銀四郎」をまだ無名だった風間杜夫が演じ、落ち目の元スター女優「小夏」を人気絶頂だった松坂慶子が演じるというキャスティング。主役の3人(銀ちゃん、小夏、ヤス)の奇妙な三角関係。そもそも角川映画が松竹と組んで東映を舞台にしているのだから何から何までがねじれていた。
しかし、そのさまざまなねじれが、深作監督の小細工なしのダイナミックな演出によって一気に解き放たれ、映画の根底に流れるつか作品特有の理不尽と情念という暗いテーマをエネルギーに転換し、笑いと涙と怒りと切なさでこれでもかと観る者を圧倒する。それはまるで、あらゆる負のエネルギーをリングで昇華させてのけた全盛時代のアントニオ猪木のプロレスのようでもあった。

人生感動! この映画のキャッチフレーズである。
命懸けの嘘が激しく胸を揺さぶる。
観終わった後に残る、ちょっぴり切ない思いは、涙を流して感動しつつ、嘘を嘘とわかっている、もう一人の自分の哀しみだ。

■蒲田行進曲
1982年/松竹製作/第6回 日本アカデミー賞(作品・監督・脚本・主演女優・主演男優・助演男優・音楽)/第37回 毎日映画コンクール(大賞・監督賞・女優主演賞・美術賞)/第25回 ブルーリボン賞(作品賞・監督賞)/第56回 キネマ旬報賞(作品賞・監督賞・脚本賞・主演女優賞・助演男優賞)/深作欣二 監督作品
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by leicacontax | 2006-03-14 14:24 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 08日
ガメラ 大怪獣空中決戦
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私の好きな東京タワーをもっとも見事に、そして美しく破壊した映画。
それが「ガメラ 大怪獣空中決戦」である。

私の映像原体験は紛れもなく「ゴジラ」であり「ウルトラQ」「ウルトラマン」で、子供の頃、テレビの特撮ヒーローものや怪獣映画や特撮映画は三度の飯より好きだった。
小学校低学年の頃、怪獣映画の人気は東宝「ゴジラ」と大映「ガメラ」に二分されていた。私の周りでは圧倒的にガメラ優勢。当時、ゴジラ映画の人気は衰退期に入っており、後発で製作が始まったばかりのガメラシリーズの方が子供たちには新鮮に受け止められていた。
なにより、カメの怪獣というのがポイントが高く(なぜか当時の子供はカメ好きで、私も縁日でミドリガメを買っては小さい水槽に入れて飼ったりした。意外に飼育が難しく、すぐに死なしては悲しい思いをした・・・)、「ギャオス」「バイラス」「ギロン」など、敵役の怪獣も形がわかりやすく、街角の映画の立て看板を何度か見ただけで誰でもすぐ絵に描けた(それに対しゴジラは、結構、絵に描くのは難しく、複雑なキングギドラは言うに及ばず、シンプルに見えるラドンでさえ、そっくりに描くのは至難のワザ。モスラの幼虫は誰にでも描けたのだが、もしかすると、モスラ人気の高さはそのあたりにも原因があったのかもしれない)。たしかに、最初からガメラ映画はゴジラ映画にはない子供へのやさしさ(親近感)があった。

後年、大人の眼で両者を比較してみて、映画としてのレベルの違いに愕然とした。映画産業の衰退と共に低予算化が加速し、往年の輝きを失い、どんどん子供騙しになっていったゴジラ映画ではあったが、初めから子供に受けることしか念頭になかったガメラ映画に比べれば、怪獣の着ぐるみやミニチュアの完成度や合成技術など、どこをとってもその出来栄えは遥かに上等だった。結局、ガメラの魅力は映画の完成度ではなく、怪獣たちのキャラクターそのもの。初期のガメラ映画は子供の想像力を刺激する動く紙芝居でしかなかった。

そのガメラが平成の世に満を持して復活。監督は金子修介。その名を聞いただけで私はどんな映画が出来上がるのかとわくわくした。
平成に入って以降に製作されたゴジラシリーズにはいまひとつノリきれなかったが(金子修介監督の「G.M.K」だけは例外)、本作を含む平成ガメラ3部作はそのもやもやを吹き飛ばして余りある素晴らしい作品だった。怪獣映画を大真面目に撮ったらどうなるか? 真摯にそれを追求した結果、日本の怪獣映画はハリウッド製SFXにはないカタルシスを獲得した。大袈裟でなく、それくらい、平成ガメラは傑作といえた。

平成ガメラの特筆すべき点は、それまでの怪獣映画にはなかった人間の視点である。ここでいう視点とは物語のそれではなく、画面のフレームの切り取り方を指す。どれだけミニチュアを精巧に作ろうが、完璧なCGを作ろうが、ベースに日常感というリアリティがなかったら驚きは生まれない。普段、我々が地面に立って見ている景色。そのフレームの中にそのまま怪獣が入ってくる驚き。いつもの日常を突然現れた怪獣が破壊する。怪獣映画の醍醐味はそこに尽きるのだが、平成ガメラは徹底的にそれをやってくれた。しかも、美しく(破壊された東京タワーにギャオスが巣を作るシーンは感動的ですらあった)。

細やかな感性と手仕事の集大成でもある怪獣映画は、日本の文化そのもの。
CG全盛の現在だからこそ、人間の手仕事を感じさせる怪獣映画には価値がある。
聞けば、新たなコンセプトによるガメラの製作が決まったとか。
日々進化を続けるCG技術の導入もいい。だが、ジャパン・オリジナルともいえる怪獣映画の伝統もぜひとも忘れずに継承してほしい。ひそかに、そう思っている。

■ガメラ 大怪獣空中決戦
1995年/日本/大映株式会社製作/樋口真嗣特技監督/金子修介監督
日本アカデミー賞3部門受賞(最優秀助演女優・特別賞・特殊技術賞)
「映画芸術」1995年ベストワン
「キネマ旬報」1995年読者投票2位
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by leicacontax | 2006-03-08 07:05 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 07日
ドラゴン怒りの鉄拳
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FIST OF FURY〜怒りの鉄拳。
20世紀初頭の中国で起きた反欧米列強およびキリスト教排斥を訴えた武術家たちによる叛乱「義和団事件」に想を得たナショナリズム爆発の映画である。
ブルース・リー主演第2作(日本公開は「燃えよドラゴン」「ドラゴン危機一発」につづく第3弾)で、作品自体は古くさくていい加減なかつての香港映画テイスト満載。敵役の日本人が着ている袴は前後ろ反対だし、日本人の宴会ではおぞましいゲイシャがストリップをやっているしで、勘弁してよの連続。
しかし、ブルース・リーなのである。1974年の日本公開当時、あまりにも日本が悪く描かれているために配給会社は及び腰だったというが、リーしか観ていない観客は、自分が日本人であることも忘れて師匠や仲間を殺されたリーと共に怒り、悪い日本の武術家がばったばったとなぎ倒されるさまに喝采。仇討ちと勧善懲悪とブルース・リーの三位一体攻撃のエネルギーの前に理屈は無力。日本人は頭を空っぽにして熱狂した。実質4本しかないリーの主演作(遺作「死亡遊戯」はアイコラのようなもの。主演作にはカウントしたくない)の中でも、この映画のリーの暴れっぷりは群を抜く。チープな作りや漫画のような演出が、かえってリーの凄さを際立たせているのだから面白い。
リー以外の見所といえば、共演のヒロイン、ノラ・ミャオの美しさくらいのものだが、実はこの映画、一つトリビアが隠されている。最後にリーと対決するスズキという悪のボスキャラ。橋本力という大映の俳優で、この人、あの「大魔神」の中に入っていた人なのである。
ブルース・リーは、怒りの化身「大魔神」より強かったのだ。

UPした画像は公開当時のパンフレット表紙。DVDのジャケットデザインがまるで駄目なので20年くらい前に新宿駅の古本市で手に入れたパンフレットを引っ張りだしてみた。
映画公開当時、私の地元にはロードショー館がなくてパンフレットが買えなかった。通っていた銭湯のおじさんに頼んでこのパンフレット表紙と同じデザインのポスターを譲ってもらい、自分の部屋に貼ったときは嬉しかった。子供の頃、銭湯には必ず映画のポスターが貼ってあって(座頭市とか東映やくざ映画。夏になると決まって怪談モノ。プロレスのポスターもよく貼ってあったっけ)、あの独特の色合いに今とは違うちょっと淫靡な映画の匂いを感じたものだった。

■ドラゴン怒りの鉄拳
1972年/香港/ゴールデン・ハーベスト製作/原題「精武門」/ロー・ウェイ監督
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by leicacontax | 2006-03-07 01:17 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 06日
カサブランカ
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ダンディズムという言葉が死語になって久しい。
大辞林によれば、

1 おしゃれ、伊達(だて)に徹する態度。一九世紀初め、イギリスの青年の間に流行したもので、その影響はフランスにも及んだ。
2 その男性の、生活様式・教養などへのこだわりや気取り。

とある。
日本風にいえば「粋」(いき)のような感性か。昔、私はダンディで粋な大人になりたいと思っていたものだった。
それが今では、いい大人の男が「チョイワルオヤジ」などと呼ばれて喜んでいる。本来はそのコピーもイタリアの伊達男のニュアンスが含まれているようなのだが、流行語になった途端、言葉の本来の意味が喪失するのはよくある話。巷には下品なチンピラオヤジが溢れている。

カサブランカはダンディズムに貫かれた古典的男のかっこよさに溢れた映画だ。
物語は第二次大戦下の男女の悲恋。典型的なすれ違いメロドラマ。いまどきこんなプロットで撮ったら。とんでもなく甘ったるいお涙頂戴か説教臭い平和主義啓蒙映画になってしまうに違いない。だが、実際に第二次大戦のさなかに撮影されたこの映画は、画面の隅々にまで戦時下の張りつめた空気が満ちていて、それがかえってメロドラマに深みとリアリティを与えている。

主演のハンフリー・ボガードは客観的に見ればさほどいい男ではない。劇中に登場する恋敵「ラズロ」の方が背は高いし二枚目だ(しかも、失恋の痛手から世を拗ねた生き方をするようになってしまったボガード演じる「リック」と違って、ナチスと戦う英雄。絵に描いたようなヒーロー)。非の打ち所のない美女イングリッド・バーグマンに似合いなのは、当然、ラズロである。
それなのに、この映画を観る時、男は皆、決まってリックに肩入れしてしまう。
リックの悲恋に涙し、拗ね者のくせに弱い者を見れば放っておけないその侠気(おとこぎ)に痺れてしまう。強さと弱さのコントラストが醸し出すチャーミング。リックは堕落した生活を送っていても、やせ我慢というダンディズムだけは一徹に通している。
チョイワルオヤジはたぶんやせ我慢はしない。  
欲望全開の生き方はそれはそれでエネルギッシュで悪くはない。が、美しさに欠ける。
抑制を利かせる。それがダンディズムの肝なのだ。 

リックの魅力的な人物造形やバーグマンの美しさだけではない。
カラーでは表現できないモノクロフィルムの繊細な影の美しさや、今も歌い継がれる「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(時の過ぎゆくまま)をはじめとする、さりげなく、それでいてドラマティックな音楽の使い方。小さな役に至るまで一人たりともおろそかにせず、それぞれの人生を感じさせる脚本の巧みさ。この作品も、私にとっては完全なる映画の1本である。

■カサブランカ
1943年/アメリカ/ワーナー・ブラザーズ製作/アカデミー賞3部門(作品・監督・脚本)受賞/マイケル・カーチス監督


                                                                      
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by leicacontax | 2006-03-06 16:54 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 04日
地球に落ちて来た男
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学生の頃に深夜テレビで観て、眠れなくなるくらい衝撃を受けた映画。
水の枯渇した惑星から、星に残して来た家族を救うために宇宙をさすらい、
地球に不時着した宇宙人が主人公。若き日の妖しく美しいデヴィッド・ボウイはノーメイクでもそのまんま宇宙人。まさにボウイのためにつくられた映画であり、ボウイなくして成立不可能な映画だった。
SFといってもSFXはほとんど使われていない。
ストーリーからしてこう。
宇宙人は高度な科学知識を使って地球で金儲けをし、
その巨大な財力で宇宙船を建造して故郷の星を目指す。
ファンタジーでありながら、その過程とその後の顛末に関するドラマはリアルすぎる。
しかし、結末のどんでん返しの洒落が利いていて
この映画は結果として皮肉でロックなお伽噺になっている。

監督のニコラス・ローグは他にも「マリリンとアインシュタイン」という
とんでもなく凄い映画を撮っている天才(傑作にもかかわらずDVD化されていないのが残念)。
カルト作家扱いされている監督だが、私はこの監督の作品が大好きだ。

時間感覚に作用する映画。
観ているだけでトリップできる。

■地球に落ちて来た男
1976年/イギリス・アメリカ合作/ニコラス・ローグ監督
デヴィッド・ボウイ初主演作品
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by leicacontax | 2006-03-04 16:36 | 映画/TVドラマ
2006年 03月 03日
オール・ザット・ジャズ
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私にとって、この作品はこれまで出会った数少ない「完全なる映画」の1本だ。
「完全なる映画」とは、脚本、映像、キャスティング、音楽、編集といった映画=総合芸術としての要素をすべて最高レベルでクリアしていることは言うに及ばず、さらに、観た瞬間からそこに描かれている世界へ一瞬にして連れて行ってくれる、そんな作品だと私は定義している。

この映画に出会ったのは、私が田舎から上京し、美術大学で映画の勉強を始めたちょうどその年で、あらゆる映画を観てやろうと貪欲になっていた時期だった。しかし、養老猛先生がいう「バカの壁」ではないが、世間知らずで独りよがりだった田舎の少年は既成概念に縛られていて、東京で初めて観るそれまで観たこともないスタイルの映画に翻弄されては、わからない、と自己嫌悪に陥っていた。
今のようにビデオも普及していない時代。レンタルビデオもないその頃、自由に好きな映画を観ることも叶わず、映画という情報を手に入れるのも一苦労。「ぴあ」や「シティロード」片手に名画座やオールナイトの特集上映で好きな俳優や監督の名前を探しては訪ね、1コマも見逃してなるものかと必死で映画を頭に叩き込んでいた。

「オール・ザット・ジャズ」は華やかなニューヨーク・ブロードウェイが舞台。欲望やさまざまな思惑の渦巻くショービジネス界の栄光と退廃。その設定だけで私にはいっぱいいっぱいだったのだが、さらにこの映画、ロイ・シャイダー演じる主人公の演出家の現実と非現実が対話しながら進行していくという一見難解な構成で、初めて新宿の映画館で観た時には意味が分からなかった。が、それでも、十分、その凄さだけはわかった。鳥肌が立った。
セックス&薬物&ニコチン中毒の主人公は案の定、病に倒れ、死へと突き進んで行く。最後の力を振り絞って作り上げたミュージカルも、結局は日の目を見る事もない。話の筋だけを追いかければ、何の救いもない夢も希望もない荒廃した映画だ。なのに、観終わると力が湧いてくる。
主人公が死ぬ間際、彼の脳内で華やかなショーが繰り広げられる。人間は死の直前、一瞬のうちに走馬灯のように自分の人生を振り返るというが、この映画の主人公は、それを見事な自作自演のミュージカルに仕立て上げる。出演者は、これまで自分が出会ってきたあらゆる人々。人生という名のスペクタクルショー。そこで唄い、踊り、皆に見送られて、彼はステージに幕を下ろす(ちなみにこの映画は、ボブ・フォッシー監督の自伝であるともいわれている)。

故・伊丹十三監督の「たんぽぽ」という映画の中でも、役所広司演じる映画好きのやくざな遊び人が、「オレ、人生の最後に上映されるその映画を観るのが楽しみなんだ」というようなセリフを言っていた。
死は怖い。しかし、死と引き換えに、自分が主人公の最高の作品を観ることができるのなら、それもいいかと思う。
ただ、私はこの映画の主人公と同様、欲張りだ。それならそれで、最後に観る作品(それが映画なのか芝居なのかそれも楽しみだ)を、より面白くしてやうじゃないかと、つい思ってしまう。人生はすべてそのための準備。材料だけはたくさん用意しておかなければならない。

■オール・ザット・ジャズ
1980/20世紀フォックス/カンヌ映画祭グランプリ/アカデミー賞4部門(美術・衣装・編集)受賞/ボブ・フォッシー監督作品
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by leicacontax | 2006-03-03 04:06 | 映画/TVドラマ