感動症候群。
2006年 02月 19日
私の場合、体調がすぐれないと鬱に入る傾向がある。小説を書く際には多少鬱傾向がいいのだが、それは前提として体調がよければの話。体調と気分が両方ダウンすると、当然、仕事にならない。といって、体調と気分の両方がハイになりすぎても仕事はうまくいかない。そのバランスが我ながらけっこう微妙でめんどくさい。
微妙といえば、トリノオリンピックも随分ビミョーだ。
現時点でメダルはゼロ。あの凄いのか凄くないのかよくわからない開会式を観た時から「?」な予感がしていたが、その通りに盛り下がってしまった。
そもそも、冬季オリンピックはそもそもヨーロッパを中心とした白人至上の大会。ジャンプ競技を見るまでもなく、彼ら白人の優位が脅かされると競技ルールまで平気で変えるのだから、五輪精神も糞もない、我々有色人種から見れば恥知らずでアンフェアこの上ない大会だ。
そんな白人の優位だけを守ろうとするいびつな大会や競技等ボイコットすればいいと私は思うが、そんなことは無関係に、それぞれの競技を純粋に愛する選手たちがオリンピックを檜舞台と感じて喜んで参加しているのなら、それを否定する気持ちはさらさらない。選手の活躍を祈るばかりだし、テレビで選手の活躍を見れば気持ちだって熱くなる。
しかし、最近のオリンピックを見ていてずっと引っかかっていることがある。
いつからだろう。オリンピックに参加する日本の選手たちが、「観客に感動を与えたい」というようなことを口を揃えて言うようになったのは。
私はこのセリフを耳にする度に腹が立つ。何様だと思う(観客の心を掴むことも勝負に含まれる一部の採点競技の選手は除く)。
我々観客は、とうてい自分たちには真似のできない、選手たちの命を削って闘うその生き様に感動する。私がプロレス、ボクシング、格闘技に惹かれてきたのはまさにその点にあり、格闘競技ほど明確な形でなくても、人間の限界に挑むトップアスリートの生き様はおのずと共通する。スピードスケートの清水宏保選手など、失神するまで練習をやめないことで有名だが、そこまでやっても負ければ散々な批判にさらされる。一流になればなるほど、勝たなければならない状況に追い込まれる。彼らに、観客の事を考えている余裕等あろうはずがない。
そもそも、誰かを感動させるためにスポーツを始める人間などいない。自分自身感動を味わいたくてやるのがスポーツではないか。観客に感動を与えたいなどとほざく前に、自分が感動できるような結果の追求をするべきだ。私は勝つ事がすべてだとは思わない。だが、観客云々などと中途半端なプロ気分の発言をされると、つい、厳しいことを言いたくなる。
いや、もしかすると結果を出す自信のない選手に限って、あらかじめ結果以外の何かを見て欲しいと予防線を張るように感動という言葉を持ち出すのかもしれない。だとすれば余計に腹が立つ。
勝負事で他人を感動させるのは並大抵では不可能。
それを知っている一流のアスリートは、寝言は口にしない。
http://www.kyocera.co.jp/prdct/optical/support/inquiry.html#sstation
私のコンタックスも浅田さん同様、猪木さんとの旅の記憶が詰まったカメラですので、できるだけ大切にしていきたいと思ってます。
昨日UPした夕日の画像も、コンタックスで撮影したもの。コンタックスのカメラで撮った空は空気感がホントきれいです。

