アントニオ猪木が語る〝劇画界の巨星・梶原一騎との本当の関係〟
2022年 11月 11日
【梶原一騎との微妙な蜜月】
──アントニオ猪木vs.ウイリー・ウイリアムス戦(1980年2月27日/東京・蔵前国技館)の仕掛け人は劇画原作者で格闘技界のフィクサーとも呼ばれた梶原一騎さんでした。梶原さんとの関係について話していただけないでしょうか。
猪木 俺は梶原さんとはほとんど付き合ったことがないんだ。ウイリー戦も、その後のタイガーマスクの件も、新間(新日本プロレス営業本部長・当時)と梶原さんの間で進められてたんですよ。
──『タイガーマスク』(画・辻なおき/『ぼくら』『ぼくらマガジン』『週刊少年マガジン』’68〜’71年連載)、『四角いジャングル』(画・中城健/『週刊少年マガジン』’78〜’81年連載)、『プロレススーパースター列伝』(画・原田久仁信/『週刊少年サンデー』’80〜’83年連載)等々、梶原作品にはずいぶん猪木さんのキャラクターが登場してますが、それらを読んだことは?
猪木 いや、実はほとんどないんです。
──え!? そうなんですか?
猪木 正確にはテレビとかでチラッと見たくらいはあったかもしれないんだけど、ほとんど記憶にも残ってない……。
──では原作の劇画も?
猪木 読んだことないんです。
──『四角いジャングル』という作品は、劇画と現実の興行がリンクしたり、またそれが映画(『格闘技世界一 四角いジャングル』、『激突!格闘技 四角いジャングル』、『四角いジャングル 格闘技オリンピック』の4作が'78〜’80年にかけて製作された)として公開されたりというメディアミックスの先駆的なプロジェクトでもあったんですが、猪木さんはプロデューサーとしては参加していなかったんですか?
猪木 ええ、俺の役割というのはリングに上がって試合をすることというか、ボクシングでいうコーチと選手みたいな関係だったから、そういう部分はみんな新間に任せて、俺を材料にして何かを引き出せ、みたいなね。
【〝猪木監禁事件〟の一部始終】
──梶原さんとは個人的な付き合いもなかったんですか?
猪木 全然。極力避けてたんですよ。俺、梶原さんは好きじゃなかったから(笑)。
──好きじゃなかったんですか(苦笑)。
猪木 最近になって彼の仕事に対する再評価もありますよね。実際、あれだけのことをやった人はいませんし、プロレス界にも多大な貢献をしてくれました。素晴らしい感性を持っていた人だということは俺も当然認めてます。ひょっとすると、ちゃんと付き合えばいい関係も作れたのかもしれないんだけど、残念ながら俺のほうにはあまりいい思いが残ってなかったんで……。
新間との間でなにかトラブルがあったとき、俺も一緒に大阪のホテルの一室に呼び出されて、よく事情が呑み込めないままいきなり脅されてね。一緒にいた男は「チャカ持ってこい!」とか言ってるし。俺は〝チャカ〟ってピストルのことだってそのときは知らなかったんだけど(笑)。本当はそんなのも単なる脅し文句だったんでしょう、一通り言いたいことを言い終わったようなんで「じゃあ帰りますよ」と帰ってきたんだけど……。あのとき、ホテルの廊下を「後ろから襲われるかもしれないな」と考えながら歩いたことが印象に残ってますね。
【影響を与え合う関係じゃないと何も生まれない】
──それまで梶原さんと新間さんはいい関係でしたよね。それがなぜそんなことになってしまったんですか?
猪木 仕掛け人同士ですから、なにか思惑のズレみたいなものもあったんじゃないですかね。立場も違いますからそれもあって当然ですし。でも、梶原さんの場合、そういうスキャンダルにしても本当は当事者なのに第三者の立場をとって作品にしたりするでしょう。だから「チャカ持ってこい」っていうような芝居じみたことも、結構、面白がってやってたんじゃないかな。
──人生そのものが自作自演の梶原劇画であり、創作のネタでもあったんですね。
猪木 そうじゃないですか。だから面白い魅力的な人ではありましたね。それになんのかんのと言っても、あの人はアントニオ猪木のファンでしたから(笑)。
──梶原さんと新間さんは、そういう意味では、あの手この手で猪木さんからスキャンダル性みたいな部分を引き出した張本人たちでもありますね。
猪木 そうかもしれないね。多かれ少なかれ、影響を与え合う関係じゃないと何も生まれないし、つまらない。ときには例のスキャンダルみたいな悪影響の形になってしまうこともあるけど、基本的に俺は自分に影響を与えてくれた人たちには感謝してますよ。
〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉