アントニオ猪木が語る〝グレート・アントニオ制裁試合〟
2022年 11月 08日
【〝密林男〟前代未聞の怪力デモンストレーション】
──グレート・アントニオと猪木さんの最初の接点から聞かせてください。
猪木 グレート・アントニオが初めて日本プロレスに来たのはまだ俺が入門したての頃で、羽田空港でいきなり長イスを「ウワァー!」って持ち上げてそこに集まっていた人たちを追い回してね。新人の俺なんかいちばん前にいたんで、とにかくびっくりして逃げた! ジャイアント馬場も逃げた!(笑)
──『第3回ワールド・リーグ戦』に初来日した際(1961年4月27日)〝密林男〟という触れ込みで、とんでもない怪物として騒がれたんですよね。
猪木 神宮外苑で本当にバス5台を引っ張ってね、当時はすごい迫力だった(註/実際に引いたバスは4台。前代未聞のデモンストレーションを見物するため1万人が集まった)。もっとも、力は凄かったけどそれだけじゃ闘いにならないわけで。相手をする方としては結構しんどい部分があった。レスリングにならなくて別のモノになっちゃう危険性があったから……。だから、きっとアントニオをうまく売り込んで連れてきたグレート東郷という興行師が本当に商売上手だったんだね。
──グレート・アントニオは若手レスラー数人を相手にハンディキャップマッチも行っていたようですが、その中に猪木さんも含まれていたんですか?
猪木 たしかあったような気もするけど憶えてないですね。あんまり試合の印象は残ってないんです。
【ゲテモノレスラーを〝生かした〟力道山と〝殺した〟ゴッチ】
──そのグレート・アントニオを新日本プロレスが16年ぶりに招聘しました(1977年10月20日〜12月8日/『闘魂シリーズ』)。猪木さんが提唱していたストロングスタイル・プロレスの方向性とは真逆。水と油のタイプだったと思うんですが?
猪木 プロレスっていうのは一番には強くなければいけないんだけど、その次に、やっぱり人気が必要なんですよ。大衆を振り向かせなければ何も始まらないわけで、振り向かせた上でどういう試合をしてみせるかが重要であって。マクガイヤー・ブラザース(註/両者の体重合計300キロを売りにしていた巨漢双子レスラー)とかヘイスタック・カルホーン(〝人間空母〟〝お化けかぼちゃ〟と呼ばれた体重273キロの巨漢レスラー)とかも下手したらゲテモノタイプの客寄せレスラーだったんだけど、当時のお客さんは一部のマニアを除けばまだまだレベルの高いレスリングより、そういう刺激を求める感覚の方が強かったんですよ。
俺の師匠であるカール・ゴッチなんかはそういうタイプのレスラーとは絶対に試合をしなかったし、やっても試合にならなかった。そこが力道山とのビジネス感覚の差でもあったんだけど、俺の場合、力道山からそういう部分を遺伝的に引き継いでいたんですね。マクガイヤーのときなんかとくに興行的に厳しい時期で、背に腹代えられない部分もあったんです(’74年、’75年、’77年、新日本プロレスに3度参戦)。だけどね、最終的にアントニオ猪木はどんな相手とでも勝負できて、観客を満足させる闘いができる自信はあった。
【一段レベルの高いプロレスを理解できなかったアントニオへの怒り】
──プロレス史に残る凄惨な制裁試合となったグレート・アントニオ戦(1977年12月8日/東京・蔵前国技館)なのですが、以前、猪木さんは「アントニオは感性のキャッチボールができないレスラーだった」と話してくれたことがありました。この試合で猪木さんが爆発させた怒りは、アントニオのそういった感性の鈍さに対する失望だったんでしょうか?
猪木 さっきの話とは矛盾するんだけど、その頃、俺自身は〟プロレスとはこうあるべき〟みたいなこだわりが強い時代だった。だからこそ、自分の信じる〝これぞレスリング!〟っていう世界に、相手がゲテモノであろうと引きずり込んでひとつレベルの高いプロレスにしてやろうという気持ちが強くあったのは確かで……。そういう思いが伝わらないことに対する怒りはあったと思いますね。
〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉

