アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー” (21)パク・ソンナン
2022年 10月 19日
【70年代の韓国プロレス】
──幻のセメントマッチといわれる〝韓国の巨人〟パク・ソンナン戦が行われた1976年(昭和51)当時の〝韓国プロレス界〟について聞かせてください。
猪木 やっぱり、キム・イル=大木金太郎の人気が凄かったね。俺と金太郎さんとの一戦が韓国プロレス界のピークだったんじゃないかと思う(1975年3月27日、ソウル奨忠体育館)。なにしろ朴正煕(パク・チョンヒ/1971〜1979)大統領が金太郎さんにだいぶ肩入れしていて「キム・イル体育館」みたいなものまで建てられてましたから。その遠征のときには、宿泊先のホテルの広いスイートルームが花で埋め尽くされていて「金太郎さんをよろしく」みたいなメッセージが添えられていた。まあ、花を持たせてくれという意味だったんでしょう。
──母国における大木金太郎選手は、戦後日本の力道山のような国民的英雄だったんですね。
猪木 力道山も大野伴睦(自民党副総裁/1890〜1964)といった大物政治家たちと深い関係にあったんですが、当初は韓国でも政治とプロレスが非常に密接だったんです。いまでも金太郎さんは一世を風靡した祖国の英雄として扱われてますよ(註/取材が行われた1996年当時)。金泳三大統領(キム・ヨンサム/1927〜2015)の就任式に俺が出席したときも、もう体が思うように動かない車椅子の金太郎さんと俺が旧交を温める模様が新聞やテレビで大々的に報じられてました。それだけ大木金太郎というレスラーは、一時期、韓国の国民に勇気と希望を与えていたんですね。
【パク・ソンナンは〝韓国のアントニオ猪木〟】
──その英雄・大木に対し、パク・ソンナンはどういった位置付けのレスラーだったんでしょうか?
猪木 元々は金太郎さんの弟子だったんだけど、そのうち力をつけて師匠に挑戦し始めた。金太郎さんは嫌がって逃げまわっていたんです。
──まるで韓国のアントニオ猪木のような存在だったんですね。
猪木 俺もそうだったけど、いちばん元気があった頃だったんじゃないですか。逆に金太郎さんは下り坂でもあり、時代的に押され気味でした。
──パク・ソンナンはテコンドーの達人という触れ込みでしたが、レスリングもできてどちらかというとアメリカナイズされたスタイルのレスラーでしたね。
猪木 うん、アメリカでも活躍していて人気もあったんですよ。それに比べると金太郎さんのプロレスは力道山のスタイルを頑なに守っていて対照的でしたね。
──猪木さんはパク選手の実力についてはどの程度情報を得ていたんですか?
猪木 アメリカにいた時期もずれてたし、直接関わったことはなかったですね。だから、ほとんどどういうファイトをするのかも知らなかった。まあ、俺も勢いのある時期でしたから相手がどんな選手だろうが関係ないというか、誰が来ようが目の前に来ればやる! そんな感じでしたね。
【勝手に組まれたタイトルマッチと前哨戦】
──問題のセメントマッチについて。この試合はタイトルマッチの前哨戦として組まれたエキシビションだったと聞いています。それがなぜ凄絶なケンカマッチになってしまったんですか?
猪木 アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合が終わってすぐ、割と軽い気持ちで韓国に行ったんです。本当はタイトルマッチの予定もなかったんですが、向こうへ着いたらそれが決まっていて。本来、タイトルマッチをやるならギャラその他の問題もあってそう簡単には決められない話なんだけど、まあいいかと(笑)。
──その上〝ついでにもう1試合〟ということになったわけですか?
猪木 わけがわかんないうちにやることになったんです。で、なんだか怪しい関係の人たちもずいぶん出てきて、結局「花を持たせろ」と。それを突っぱねたら〝ルールなし〟みたいな雰囲気の試合になってしまった。
【セメントマッチの真相】
──その試合はまったく資料が残っていないのですが、いったいどんな展開だったんですか?
猪木 一回関節を極めて、すぐ「参った」したから離してやったら向こうが「参ったしてない!」と言い張って……。おまけにヤツがリング下で体に油を塗ってきたもんだから全然掴めない。それで目玉を抜いたら(目に指を突っ込んだ)リング下に落ちたまま上がってこなかった。そんな試合でしたね。
──どうしてそこまでエスカレートしてしまったんですか……。
猪木 いま思えば気の毒だった。実力の差は本人がいちばんわかってたと思いますよ。でもオリンピックじゃないけど、国を背負ってしまう国民性みたいなものが韓国の人は強いでしょう。とくに本国では絶対に負けられないというプレッシャーが凄い。そんな中で勝ち目がないとも言えないし、よっぽど追い詰められてしまったんだと思いますよ。それでも、闘いにおけるルール違反をしてきたのは許せなかったんで……。目玉をやったのは彼とペールワンだけです。
【試合前から戦意喪失。韓国プロレス崩壊の序曲】
──その翌日(1976年10月10日)、日本でも放送されたNWFのタイトルマッチではKBS(韓国の国営放送)の生中継が入っているというのにパク選手が出場を拒否する騒動があったそうですね。
猪木 試合直前になって「もうやりたくない」って控室に篭もったまま出てこなかった。生放送の番組で入場の時間も指定されてたんですけど、たしか30分くらいテレビの画面が白くなって楽団の演奏が流れてたんじゃないかな。それでいろんな人が間に入ってきて「もう危ない目には遭わせないでくれ」とか言われて。こっちはある程度なら立ててやるくらいの度量はあったつもりなんだけど、それでも向こうはビビってしまってなかなか出て来ませんでしたね。
──そういう経緯があったんですか。なるほど、だから試合が始まってみると拍子抜けするくらいオーソドックスな展開が続いたんですね。最後も猪木さんの鉄柱攻撃でパク選手が戦意喪失。あっけない幕切れでした。
猪木 やる前から戦意喪失ですから。こっちはほとんどなにも仕掛けなかったんですけど。結局、彼はどうすれば自分の面子が立つ負け方になるか、そればかり探りながら試合をしてたんじゃないかな。
──地元のエースが2度続けて、しかも完膚なきまでに叩きのめされて敗北を喫したというのは、韓国プロレス界始まって以来の出来事だったんじゃないですか?
猪木 試合の後、筋の悪い人たちに脅されたり、選手に石を投げられたり、大変な騒ぎにはなりました。韓国のプロレスではあくまで日本人は悪役。必ずやっつけられるという勧善懲悪のパターンしか観客も見てこなかったわけだから、俺たちがそのとき持ち込んだストロングスタイル・プロレスはショックだったんだと思います。
〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉

