アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー” (14)ジャイアント馬場
2022年 10月 06日
【マンモス鈴木とジャイアント馬場のデカさに驚愕】
──日本プロレス入門時、17歳の少年だった猪木さんの目に、初めて足を踏み入れたプロレスの世界はどう映ったのでしょうか。
猪木 道場に入っていちばん最初に感じたことは「デカいな、すごいな」かな。それまで自分より大きい人間を見たことなかったから、マンモス鈴木を見てまずびっくりして、そのあと練習に使う斜めになってる台にもたれてる背広姿の馬場さんが目に入って「この人もずいぶん大きいな」と思ってたら、ゆっくり立ち上がったのを見てまた驚いた(笑)。でも、そんなに違和感はなかったね。プロレスの世界ってこういうものかな、そんな感じで当たり前のことと受け止めていたような気がする。
──それは馬場さんと猪木さんが揃ってマスコミにお披露目された日のことですね(1960年4月11日)。
猪木 正確に言うと入門は俺のほうが1日早いのかな。道場に行った日は同じだけど。
──力道山から若手時代の猪木さんは、馬場さんに比べて差別的な扱いを受けていたといわれています。最初から待遇にも大きな開きがあったんですか?
猪木 馬場さんは俺より五歳年上で大人でしたからね。それは当たり前だと思ってましたよ。
──では馬場さんばかりが特別扱いを受けているとは感じていなかったと?
猪木 そういうのはなかった。マンモス鈴木と馬場さんの間にはけっこうあったんじゃないかと思うけど、俺は周りを見ている余裕がなかったからね。日本に着いた翌日からいきなりスクワットを500回やらされて。最初からそんなのできるわけがないんだけど、できるようになったらなったで、1000回、1500回とどんどんエスカレートしていくような毎日でしたから。周囲と自分を比べるより、むしろ辛い練習に共に耐えているという仲間意識、連帯感のほうが強かったですね。けっこうお互いに思いやる気持ちのようなものが生まれてましたよ。
【デビュー戦の明暗が意識を変えた】
──ではジャイアント馬場とアントニオ猪木のライバル物語というのはいつ頃から始まったんでしょうか? デビュー以来、つねに馬場さんは猪木さんの前を走り続けていたわけですが。
猪木 いや、そのときジャイアント馬場は走ってない!(笑)力道山を頂点に、豊登さん、吉村さんが上にいて、その間にもたくさん先輩がいて、俺たちのポジションは本当に末端。馬場さんの位置もその意味では同じようなものだったから。ライバルだとはっきり意識するようになったのは、東京プロレスを経て日本プロレスに戻って事実上トップの座を競うようになってからだね。
──力道山の扱いに対する不満や失望はなかったと。
猪木 大きくて、かっこよくて、ヒーロー中のヒーローとでもいうのかなぁ。自分にとって力道山が神様であることに変わりはなかったですね。でも、入門して付き人をしながら半年トレーニングして、いよいよデビューというときになって初めて疑問を感じたんです。
──疑問?
猪木 デビュー戦の俺の相手は大木金太郎さんだったんだけど、その時点では彼が若手の中で一番強かったんです。それはいいんだけど、馬場さんの相手は田中米太郎さん。俺がやっても勝てる相手だったから、ちょっと納得がいかなくて。まだ穢れを知らない子供だった俺はプロレスを純粋に勝負事だけのものと捉えていましたから。面白さを演出するために意図的なマッチメイクがプロの世界にあるとは考えたこともなかったんですね。
──実際、記念すべきデビュー戦で猪木さんは惨敗し、馬場さんは快勝。あきらかに不平等なマッチマイクの結果が若き日の猪木さんの心に影を落としたわけですね。
猪木 そうです。ジャイアント馬場とは同じ日に入門して同じ日にデビューですから、何も感じなかったといったら嘘になりますね。
〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉

