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アントニオ猪木“盟友”坂口征二を語る。

20054月/公式ファンサイト『TEAM INOKI』インタビューより】


「政界に転身した時点が、事実上、俺の引退だったと思うし、その後、坂口征二が新日本プロレスの社長になったのは正解でしたね。あの頃、日本はバブルの絶頂だったんだけど、慎重な性格の坂口はあえて本業以外には手を出さなかった。それがおそらく新日本にとっては幸運でしたね。


もしかしたら、俺があのまま社長をやってたら、まあ、不動産や株には手を出さなかっただろうけど、バブルに乗じて何百億の借金をして、いけいけどんどんで何かの勝負に出て失敗してたかもしれないし(笑い)。


ただ、バブルが弾けたことで状況が変わったんですよ。世の中が停滞して、もう、冒険をしないことは美徳ではなくなった。それに景気が悪くなって社会情勢も厳しくなってくると、経営にも専門的能力が必要になってきた。俺も含めて、レスラーは経営学のようなものをきちんと学んでいないから、理にかなった蛇口の締め方がわからないんです。


実際、いっとき、たしかに新日本は経営の体質が非常に甘くなってたのはたしかだった。

俺や坂口の時代は終わったんですよ。老兵は消え去るのみ。こういう変革の時代は若い人たちに任せないと。ますます国際的な視野や感覚が求められる時代になってきてるというのに、かつては、つねに『世界へ!』という意気込みでやっていたはずの新日本がそういう視点を失ってどんどん自分から小さくなってしまった。まあ、災い転じてというか、いろいろあった結果としてスタッフの新陳代謝もうまくいったので、これからは若い人たちの活躍の機会が増えていくと思いますよ。また、そうあって欲しいですし、それができる才能も育ってきてます。それは自信をもって言えますね。


坂口との思い出? そうだな、いろいろあるけど、やっぱり一番印象に残ってるのは、一緒に新日本を始めるきっかけの出来事かな。

俺が新日本を旗揚げした後、ジャイアント馬場も日本プロレスを辞めて、結局、最後まで残ったのが坂口たちだったんですよ。一気に興行が落ち込んで客が数百人しか入らなくなっても、坂口は自分を日本プロレスに引き入れてくれた芳の里さんに恩義を感じていて辞められなかったんです。


そんなとき、たまたま東京駅で新日本プロレスと日本プロレスの一行がすれ違った。険悪な雰囲気になるかと思いきや、星野勘太郎が俺のところに走って来て挨拶してくれた。彼が袂を分かった俺と坂口を再び引き合わせてくれたんです。

俺は彼らに恨みも何もないですから、『頑張ってくれ!』とエールを送ってね。当時、旗揚げしたばかりの新日本はテレビ中継がなかったんだけど、客が入らなくなったとはいえ、まだ日本プロレスにはテレビがついてた。当時は1000万人くらいの視聴者がいたから、彼らがテレビでいい試合をやってくれることが、ひいてはプロレス全体にプラスになると俺は考えたんです。


それから少ししてまた会う機会があって、そのとき、義理人情に縛られて悩んでいる坂口に俺はこう言ったんですよ。『泥舟に乗って沈んで行くのもよし。でも、俺たちが新しい船出をすれば沈んで行く人たちを救うこともできるよ』と。たぶん、それが坂口にとって心を決めるきっかけになったと思うんだけど、なにぶん昔のことだから、もう憶えてないかもね(笑い)。


余談になるけど、星野勘太郎にはね、俺が議員をやってた時期だったこともあって、引退のときに十分なことをしてあげられなかったんですね。彼は俺を一度も裏切ったことがないし、いまでも興行の面でなにかと新日本を助けてくれてる。彼には本当に感謝してますよ。


年を取ったけど、俺も坂口もまだまだプロレス界のために働かないと。経営者としては坂口より前に俺は退いてる。新日本プロレスという会社はとっくに選手や社員のものになってるわけで、俺はもう、あくまで投資家の1人に過ぎない。まあ、ときどき、俺のものだと錯覚したこともあったけど(笑い)。それでもね、人材育成もしかり、選手が思う存分闘えるように、そんなことはあってはならないんだけど、たとえ万一の事があったとしても安心できる年金制度のようなものをね、俺たちが考えなければならないと思うんですよ」


聞き手/木村光一・文中敬称略





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by leicacontax | 2022-10-05 02:00 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(0)

現実は精巧に造られた夢である。〈長谷川りん二郎の言葉〉


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