カウント3を聞いた日。
2022年 10月 01日
今朝、猪木さんの訃報に触れた。
一進一退の病状を知るにつけ、徐々に覚悟は固めていた。
それでも、まだ私は茫然として涙も流せずにいる。
私は実の父を5歳のときに亡くした。
そのときも泣いた記憶はない。
泣く度に怒鳴られたり折檻されたりした記憶がそうさせたのか、あるいは恐怖の対象でしかなかった父親の死に安堵を覚えていたのか、いまとなっては定かではない。
いずれにせよ、私は追いかける父の背中を失ったまま生きていかねばならず、それはときに大きな欠落として私を不安に陥れた。たとえ反面教師であったとしても、父親はいないよりましだと思い込んでいたからだ。私が人一倍〝強さ〟や〝男らしさ〟に憧憬を抱くようになったのもそのためだった。
いつだったか、猪木さんへのインタビュー中に「僕にとってアントニオ猪木は男としてどう生きるべきかを教えてくれた父親のような存在でした」と口を滑らせてしまったことがあった。やはり早くに父親を亡くしている猪木さんなら、この気持ちをわかってもらえるだろうという甘えから発せられた不用意な言葉だった。
猪木さんは「おやおや」とダジャレで切り返したきり目を逸らし、しばらく押し黙った。
私は仕事として対峙している猪木さんの前で個人的感傷を曝け出してしまったことを猛烈に恥じた。と同時に沈黙の中で、自分はアントニオ猪木に一人前の男としての憧れではなく父性を求めていたのだと思い知らされた。おそらく、猪木さんはそんな私の未熟さを感じ取り、無言のうちに「大人になれ」と諭してくれたに違いなかった。
その一件以来、自分の役目は目の前にいるアントニオ猪木──偶像ではない猪木、本人も自覚していない真実の猪木像を追求することだと心に決めた。思えばその気づきを得たことによって、私は物書きとして一本立ちを果たし、長い間逃れられなかった亡き父親の呪縛からも徐々に解放されていったのだった。
私が猪木さんの密着取材だけでなく、ブレーンとして当時の側近の方々のお手伝いをさせていただいた期間は、ちょうどプロレス引退前のファイナルカウントダウンからUFO(世界格闘技連盟)旗揚げ及び同団体崩壊の時期にあたる。実にそれは10年にも及んだのだが、私はある出来事をきっかけに猪木さんと距離を置くことになり、結局、そのまま再会を果たせず今日という日を迎えてしまった。
振り返れば、最後の同行取材となったバングラデシュ訪問の際、猪木さんはこんなことを呟いていた。
「もう、いい加減、アントニオ猪木でいることから解放されたいんだけどね…」
それは現役引退後も、いつ何時でもアントニオ猪木であり続けていた猪木さんが漏らした素の声だった。
いまとなっては猪木さんがどんな自分でありたいと望んでいたのかはわからない。アントニオ猪木であることの何が猪木さん自身を縛り付けていたのかも。
ともあれ、その後も猪木さんは最期までアントニオ猪木であることを貫き通した。そして、今日、引退試合でも許さなかった〝3カウント〟を聞いた。
闘いは終わった。
猪木さんはようやく自分自身を解放したのだった。
だから、私は悲しまない。
そしていまの自分に出来ることはただひとつ、感謝しかない。
猪木さん、いままで本当にありがとうございました!
私も闘います。
命尽きるその日まで。



猪木さんには感謝の気持ちしかありません。木村さんにはこれからも猪木さんの事を書き続けて欲しいと願います。
一昨日から、ずっと猪木さんのことを考え続けています。
昨日は私の恩人の墓参りに行ってきました。偶然にも命日が猪木さんと隣り合ったその方も猪木さんと関わりのあった人物でしたので「猪木さんもそっちへ行きました。よろしくお願いします」と告げて花を手向けてきました。
今もまだ、私は泣いていません。でも、炎のファイターを聴くとあまりにも多くの記憶が押し寄せてきてどうしていいかわからなくなります。
追悼文にも記したように、こんなことを言えばまた猪木さんに「おやおや」と嗜められてしまうかもしれませんが、やっぱり、私にとって猪木さんは心の父でもあったのだと痛感しています。
これから生きていかなければならないアントニオ猪木の居ない世界。
なんだか、SFのパラレルワールドに紛れ込んでしまったみたいです。
感傷を捨て徹底的に本当のアントニオ猪木と対峙したときに姿を現したのが格闘家・猪木でした。
猪木さんは相撲・柔道・アマレスの猛者がひしめく日本プロレス道場で無意識のうちにそれぞれの格闘技のエッセンスを吸収し、さらに来日したシュート・レスラーたちから極限状況の際に身を守る術を学び取って自身の強さを確立した稀有なプロレスラーでした。
近年になって、猪木さんの寝技と柔術の共通点などが指摘されるようになりましたが、その原点には寝技(高専柔道)の達人・大坪清隆さんとのスパーリングがあったこともようやく知られるようになってきました。まぎれもなく猪木さんは、現在の総合格闘技にも通じる格闘の技術体系(打撃を除く)をおそらくは10代後半にはほぼマスターしていたといっても過言ではなかったのです。
ただ、猪木さんの時代にはその能力を100%発揮できる場は存在せず、その独自の技術体系も新日本プロレス道場でのスパーリングの中で小出しにする形で弟子たちに伝えるしかなかった。もっともその影響を受けた藤原喜明選手や佐山聡さんが後年にUWFでその片鱗を披露しましたが、藤原選手は猪木流よりもゴッチ流、佐山さんは打撃系の技術に重きを置いていたため、結局、アントニオ猪木の格闘技術は体系化されないまま今日に至ってしまったのだと、そう私は考えています。
もっとも、猪木さんの技術は特異体質ともいえるあの肉体があってはじめて使いこなせるものでもあったため、たとえ佐山さんのような天才がによって理論化されていたとしても継承は不可能だったかもしれません。
10月1日が御祖母さまの命日。ますます忘れられない日になってしまいましたね…。
でも、今はまだバットで殴られたようなショックと悲しみから立ち直れない状態かもしれませんが、これからは大好きだった御祖母さまと猪木さんの2人の魂に手を合わせることのできる特別な日を天から与えられたとも言えるのではないでしょうか。
きっとプロレス好きだった御祖母さまも猪木さんを温かく迎えてくれるでしょう。
ひょっとすると、昭和も遠くなった今、猪木ファンの数もあの世の方が上回っているかも。
天上に響き渡るイノキコール!
想像したら少し胸が熱くなりました。
すみません、私、勘違いしていたようですね。
10月1日に40年前に亡くなられた御祖母さまのことを思い出していたところ、猪木さんの訃報に追い討ちをかけられた──そういう文面でしたね。
言い訳になりますが、やっぱり、ここ数日の私はどこか普通ではなかったようです。
たいへん失礼いたしました。
思えば猪木さんを好きになった人たちはずいぶん長く猪木さんとともに闘ってきました。つくづく同じスーパースターでも長嶋茂雄さんとかを好きな人は楽でいいなと思いました。猪木さん本人の闘いに比べれば私なんか闘っているうちに入らないでしょうけど、それでも猪木さんが笑えば私も笑い、猪木さんが辛い時期は私も辛かった。でも猪木さんをずっと好きで良かったです。
おっしゃる通り、予測不能の猪木さんを好きであり続けることも闘いでしたね。
私は猪木さんが娘さんとアリの娘を闘わせようというプランをぶち上げた時点で猪木さんと距離を置くようになりました。それをやってしまったら猪木さんはそれまで貫いてきた信念を自ら否定することになってしまう。アントニオ猪木のやってきたことがすべて嘘になってしまうと。私は側近の方にそう伝え、以来、関係は途絶えてしまいました。
今振り返れば、直接、猪木さんに真意を訊ねるべきでした。本気だったのか、あるいは世間の注目を集めるためのアドバルーンだったのか…。しばらくして和田良覚さんから「会長と木村さんの話になったとき、木村くんは真面目だからなぁと言ってましたよ」と聞かされ、複雑な気持ちになったものです。
思えば私が設立時にお手伝いさせていただいたUFOの崩壊も、基盤となる組織作り(選手育成のアマチュア下部組織)を優先したい佐山さんの一途な生真面目さと、それもこれも興行の成功あってこそ実現できる構想だと考える猪木さんの考え方のズレから始まったように記憶してます。
新日本プロレス時代から延々繰り返された離合集散劇は、その度にファンを傷つけ、猪木さん自身をも傷つけてきました。今なら、たとえ100パーセント猪木さんに非があったとしてもすべて呑み込んで味方につくことができるかもしれません。が、あの頃の自分にはそこまで清濁合わせ呑む覚悟を決められませんでした。本当のことを言えば、いまでも私の中にはさまざまな猪木像があって一つに統合できずにいます。それもこれも、猪木さんがプロレスラーだったから? いや、違う。猪木さんがアントニオ猪木だったからです。この複雑怪奇な感情。coppenさんのおっしゃる通り、つねにマジョリティの側だった長嶋茂雄ファンには到底理解できないと思います。

