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アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー”   (9)ローラン・ボック

【ボックはアリと闘ったイノキを踏み台にしようとした】


──猪木さんがヨーロッパ遠征(197811月7日〜29日)を行うまで、ローラン・ボックというレスラーは日本において無名の存在でした。彼のことはいつ頃からご存知だったんですか?


猪木 アリ戦があって、ペールワン戦があって、俺の名前が世界的に売れたことで彼から誘いがあったんですけど、招かれて向こうへ行くまで、あんまりよく知らなかったんですよ。ヨーロッパへ行っていた選手に聞いた話では、アマチュア(レスリング)ではもの凄いバリューを持ってたんだけど、プロとしてはあまり評価されてないとかで。俺が呼ばれたのは彼がちょうどプロモーターとしてデビューしたときだったんです。


──ということは、ほとんど予備知識を持たないまま、あのプロレス史に残る殺人的ツアーへと旅立ったわけですか?


猪木 まあ、わざわざ行かなければならない理由もなかったし、行ってからいろいろな問題にも気づいたんだけど、当時の俺の夢というか、「世界制覇」ではなく「世界漫遊」のいい機会だと思ったものでね(笑)。あとから見れば過酷な遠征になってしまったわけだけど、きっかけはそんな感じでしたね。


──それにしても23日間に5カ国を巡って21試合を行うというスケジュールはあまりにも強行過ぎます。しかも、肝心の観客動員の方も思わしくなかったとか。


猪木 いいところは超満員。だめなところはまったくの不入り……。目論見が外れたみたいでしたね。要するに、それまで自分たちがやってきた興行に“アントニオ猪木”という名前をくっつけただけで商売をやろうとしたんですよ。何か新しいレスリングを見せようという理念もなしに、ただ数だけこなして、その分だけ客を入れようというまったく無策なやり方で。まあとんでもない町まで連れていかれては、地元の英雄みたいな相手と毎日闘わされてましたね。



【絶体絶命の危機の直面して身につけた“負けない強さ”】


──遠征に同行した藤原喜明選手は「とにかくヨーロッパはリングのコンディションが悪くて、対戦相手の問題より、その硬いマットで猪木さんがケガをしなければいいとずっと祈ってた」と当時を振り返っていました。


猪木 リングといっても板の上にシートを敷いただけ。それこそスープレックス一発が必殺技になってしまう。最近はプロレスでも打撃が注目されてますけど、あのリングだったら投げでも相手をノックアウトできましたね。実際、一発投げられたら腰が痺れて……。“受ける”なんてとんでもない、それどころか延髄斬りのあとの着地のときにもダメージを受けてしまって。肩も外したし、肘や膝も打撲でやられてひどい状態でしたね。


──この遠征中に組まれたカードはすべてセメントマッチだったとか。完全なアウェイの地で連日極限状態の闘いを強いられていたこの遠征中、猪木さんはいったいどのような精神状態だったのでしょうか?(註/当初、この遠征の戦績は201217引き分けとされていたが、近年、プロレス史家の那嵯涼介氏の検証によって2214勝1判定負け7引き分けだったことが明らかになった。なお、そのうちの1試合はツアーとは別に組まれたエキシビションマッチで結果は引き分けとなっている。参考資料『最強の系譜 プロレス史 百花繚乱』より)


猪木 引き分けが多かったでしょう。


──はい。記録によれば7試合が引き分けです。


猪木 もうダメージがあまりにも大きくて、倒すことより倒されないだけで精一杯でね。その反面、俺のコンディションが悪かったことで、逆に相手に極められなかった部分もあったんです。


──それはどういうことですか?


猪木 肩を痛めてこっちは右腕が全然使えなかったんだけど、技っていうのはね、かけられている側にまったく力が入ってないと逆にかからないんですよ。相手のパワーや反発も利用して初めてがっちり入るんだけど、俺のパワーが落ちているものだから向こうも腕を取ることすらできなかった。もちろん、こっちからも仕掛けられなかったんだけど、相手はそれ以上に難しかったんじゃないかな。俺を倒せる奴はそういないと今でも豪語できるのは、そんな経験をしてきてるからなんですよ。


──絶体絶命の危機を“負けない強さ”へと転化させたんですね。


猪木 そういう状況だったんで、何も考えられなかったというのが本当ですね。そんな中で唯一救いだったのが、向こうの興行ではサーカスみたいなアトラクションが必ず試合の他にあるんだけど、黒人でフュー!って火を噴いたりする奴が一緒に出てたんですよ。その黒人が出てくるときに場内で流れていた音楽がなんとも軽快でよかったんですね。ヨーロッパ的じゃなくてアフリカ的な音楽で、暗くて侘しい控室にいて、その陽気さにはずいぶん救われた思いがありました。音楽のテープをもらってこようと思ってたんだけど忘れちゃって、結局そのまま手に入らなかったんだけど、何か試合の印象というより、そういうことのほうが妙にはっきり憶えていますね。



【関節技の通用しないボックとの闘いはレスラー同士の異種格闘技戦だった】


──ボックとの試合について伺います。シュツットガルトで行われた試合をビデオで見ると、ボックの投げの凄さが嫌というくらい伝わってきます(19781125日。結果はボックの判定勝ち)。実際、あのスープレックスを身をもって味わってみてどんな印象を受けましたか?


猪木 あとから“スープレックス”を武器にしたロシアのレスラーが出てくるんだけど、あの時点でああいうスープレックスはなかったですからね。闘ってみてはじめてわかったんだけど、ボックの投げ技はレスラーの範疇を超えていて異種格闘技戦みたいでした。


──“人間風車”ビル・ロビンソンのスープレックスとはどう違っていたんでしょうか?


猪木 ひとことで言うと比較にならないパワーというか、有無を言わさずボーン!ってもってかれる。本当に体の反りで投げるから、抵抗する間もなく飛ばされてしまうんですよ。ボックは大きいだけじゃなくて体も柔らかく、ブリッジも非常に強かった。


──ボックの実力は間違いなくレスラーとして最強クラスだったんですね。


猪木 パワーは凄かった。だけど残念ながらバランスが悪いというか……。これは本人の意識の問題だと思うんだけど、おそらく彼はバランス感覚に欠けていたためにオリンピックでも勝てなかったんですよ。あれだけの素質があるわけだから、本来なら勝って当たり前の選手だったと思うんですが(註/ボックは1968年、レスリング・グレコローマンスタイル・ヘビー級の西ドイツ代表としてメキシコオリンピックに出場)。


──バランスの欠如? パワーやフィジカルは圧倒的だったんですよね? ということはメンタルに問題があったということでしょうか?


猪木 大きい人に総じて言えるんだけど、どこか気が弱いんですよ。こっちがファイトむきだしで一発バーン!ってかますとフッと沈んでしまったり。


──たしかに、あの一戦はラウンド制のヨーロッパ・ルールということもあって試合全体のペースを終始ボックが握っていたんですが、猪木さんがドロップキックで反撃するとあきらかに弱気になったのがわかりました。ひょっとすると打撃には弱かったんでしょうか?


猪木 弱かったですね。それは言える。打撃技に対するディフェンスを訓練していなかったこともあるんでしょうけど……。そもそもボックはスープレックスにもっていくタイミングとか、ロープの反動を利用して投げる技術は非常に素晴らしかったんですが、“格闘”としてのテンポ、動き、勘に関しては少し鈍かったですね。


──スリーパー・ホールドもだいぶボックにダメージを与えていましたね。ラウンド制でなければあるいは締め落とすなどして猪木さんが勝っていたんじゃないですか?


猪木 ボックは大きくて柔軟性があって脚も強くて、身体的には非の打ちどころがなかった。こっちとしてはどこをどう攻めればいいんだという感じで、結局、他の部分は攻めきれなかったというのが本当のところですね。


──そういえば、あの試合で猪木さんは得意の関節技をほとんど使っていませんでした。


猪木 いや、使えなかったんですよ。


──それはボックには関節技がかからなかったという意味ですか?


猪木 そういうことですね。アキレス腱固めは、かかれば効いたと思います。でも、かけるまでに脚の力ではじき返されてしまうんですよ。


──逆に猪木さんは受け身のとれないスープレックスで投げられてダメージを受け、たしか帰国後には入院までされていましたね。


猪木 それまでも指の骨折とか、試合中のケガは数えきれないくらいあったけど肩を外したというのは初めての経験で……。あれはレスラー生活の中でいちばん大きなダメージでしたね。



【プロレスに馴れきったボックは本来の輝きを失っていた】


──ヨーロッパ遠征から3年後、1982年1月1日に新日本マットで再び対戦したときの印象はどうでしたか? ボックは交通事故の後遺症もあってコンディションはあまりよくなかったと言われていましたが(註/結果は3R315秒、ボックがレフェリーに暴行を加えて反則負け)。


猪木 う〜ん、試合をやったかどうかさえよく憶えてないくらい印象がないんですよ。それにボックのベストコンディション自体がわからないから、なんとも答えにくいな……。まあ、それでも日本での試合は、彼自身はプロモーターとしての立場から解放されて精神的な余裕もあったはずで、そんなに悪い状態でもなかったと思う。ただ、ヨーロッパで闘ったときのギラギラした輝きとか、異種格闘技戦のような緊張感とか、そういうものがまったく薄れてしまって、ボック本来の持ち味が失われて“プロレスラー化”してしまったという印象はあった。なにかプロレスに馴れきってしまったような。だから日本でやった試合は印象が残っていないんじゃないかな。


──それ以降のボックはビジネス上のトラブルで逮捕されるなど、あまりいい話題がないままプロレス界から消えていってしまったんですが、彼は人間的にはどんな人物だったんですか? 


猪木 非常に計算高い野心家! 俺は面白いと思ってた。あのヨーロッパでのツアーは客が入らなくてギャラも全額が支払われないといったトラブルもあって他の選手たちは「信用できない奴だ」って怒ってたけど、俺なんか反対に「面白いじゃねえか、騙すなら騙してみろ!」っていう発想にすぐ立っちゃうから(笑)。でも、そういう野心家だからこそできる部分っていうのもあって、結構そういうところを俺は認めちゃうんですよ。もし、彼が事故に遭わなくて、俺にも余裕があって交流が続いていたら、うち(新日本プロレス)の選手をもっと頻繁に送り込めただろうし、そうなればヨーロッパのプロレス市場ももっと変わっていたかもしれなかった。


──なるほど。ボックが健在でプロモーターとしても成功を収めていたら、その後の新日本の若手選手たちもヨーロッパで得るものがあったでしょうね。


猪木 メキシコのルチャ・リブレもそうだけど、ヨーロッパのプロレス界も保守的で何も変えようとしない。少なくとも俺とボックはそういう状況を打破して、パワー&テクニックの新しいタイプのレスリングを広めていきたいという意識は共有できていたんです……。ボックの登場は、大きな視点で捉えればヨーロッパのプロレスが変化するチャンスでもありましたから、なによりもその機会を失ったことが残念でしたね。


〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉





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by leicacontax | 2021-10-19 10:02 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(0)

現実は精巧に造られた夢である。〈長谷川りん二郎の言葉〉


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