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アントニオ猪木が語る“レジェンドレスラー”(4) ヒロ・マツダ

【力道山、カール・ゴッチとの距離のとり方に相通ずるものがあった】

──ヒロ・マツダさんは猪木さんから見れば“兄弟子”にあたりますが、日本プロレス時代に接点はあったのですか?

猪木「俺が日本プロレスに入門したときにはすでにいませんでしたから、はじめて会ったのはアメリカへ行ってからですね。当時、マツダさんはテキサスでデューク・ケオムカさんとタッグを組んでチャンピオンになってたんだけど、そのケオムカさんの紹介で会ったんです」

──マツダさんは“力道山を否定した最初の弟子”といわれていますが。

猪木「そんな感覚はなかったんじゃないかな。とにかく力道山の存在は、レスラーとしてもプロモーターとしても巨大なものでしたから。そういう見方は力道山の死後少し経って出てきたものでしょう。俺にもマツダさんが力道山を否定して出て行った人という認識はなかった。ただ、マツダさんと力道山の話をしたことはほとんどなかったですね」

──猪木さんはアメリカ修業時代、テネシーでマツダさんと組んで「NWA世界タッグ王座」を獲得しています。マツダさんはシングルでもNWA世界ジュニアヘビー級のベルトを腰に巻くなど、本場でもかなり高い評価を受けていたわけですが、若き日の猪木さんの目にヒロ・マツダというレスラーはどのように映ったのでしょう?

猪木「俺はその頃、沖識名さんから教わった技をベースに、割と天性の素質に頼ったレスリングをしてたんです。力もバネもあったんで、日本プロレスでは誰にもスパーリングで負けなかった。でも、マツダさんと練習してみたら、すでに彼はゴッチの門下生だったこともあって、俺が知らないテクニックをいっぱい持ってたんです」

──テネシー時代のいちばんの思い出は?

猪木「タッグチャンピオンにはなったけど、当時のテネシーは反日感情がとくに強くて大変でしたね。俺たちがどんなにいいレスリングをやってもそんなことは関係なし。日本人だというだけで完全にヒールでした。
テネシーはアメリカのなかでもとくに荒っぽくて客も過激だったから、俺たちがエディ・グラハム、サム・スティムボード組に勝ったときには暴動が起きてしまって。椅子は投げ込まれる、警察は出動する、リングの周りは取り囲まれるといった状態になってね…」

──それでどうなったんですか!?

猪木「マツダさんと二人、リングの上から客の上にダイビングして命からがら控室に逃げ帰った。それでも、ナイフで背中を3箇所くらい斬られましたね。だから、まあ、非常に思い出として残ってるんだけど(笑)」

──その12年後、マツダさんと「プレ日本選手権」の決勝戦(1978年12月16日)ではじめてシングルで対戦されたわけですが、試合中どんなことを感じていましたか?

猪木「すごく技が切れて巧かった。けど、俺にはマツダさんの動きが大体読めてた」

──技の引き出しが猪木さんと似ていたということですか?

猪木「同じゴッチ門下ということもあるけど、マツダさんはすでに一つの型を持っていて、逆にそれが俺としてはやりやすかったんですよ。意外性がないんで安心というか。もともと俺とは体力や柔軟性の面で差がありましたし、すでに彼は年齢的にも下り坂でしたから」

──この一戦が「プレ日本選手権」と銘打たれていたあたり、当時の猪木さんの考え方や勢いが見て取れます。

猪木「最近は“俺こそナンバーワンだ!」というヤツがどこの団体にもいない。俺は、いつ何時、誰の挑戦でも受けると言い続けてきたわけだけど、そういう怖いもの知らずの自己主張というのは、プロレスにとってもっとも基本的な姿勢のはずなんですけどね…」

──マツダさんは現役引退後、ハルク・ホーガン、レックス・ルガーらを育成し、海外修業中の武藤敬司選手にも磨きをかけてスターにしました。猪木さんは指導者としてのマツダさんの手腕についてはどう見ていますか?

猪木「それは無条件で評価できますね。基本的にマツダさんのプロレス観やこだわりは俺と似ているので、彼に選手を預けておけば安心なんですよ。新日本プロレスとしても、マツダさんには本当に感謝してます」

〈『アントニオ猪木の証明』木村光一著より抜粋〉





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by leicacontax | 2021-04-21 07:29 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(0)

現実は精巧に造られた夢である。〈長谷川りん二郎の言葉〉


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