プロレスラー・アントニオ猪木年表/1964(昭和39)〜1966(昭和41)
2021年 03月 13日
■1964(昭和39)
3月9日 アメリカへ初の海外遠征に旅立つ。
3月11日 ホノルル・シビック・オーデトリアム。カーチス・イヤウケアと海外遠征初試合。1−1の引き分け。
5月10日 トーキョー・トムのリングネームでカンサス州入り。
6月24日 テキサス州ヒューストン。ジョー・ブランチャードを破り「NWA認定テキサス・ヘビー級王座」奪取。以降、ロサンゼルス、オレゴン州を転戦。
■1965(昭和40)
6月21日 カンジ・イノキのリングネームでテキサス入り。
10月13日 テキサス州ダラス。デューク・ケオムカと組み、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス組に勝利。「AWA世界タッグ王座」奪取。
■1966(昭和41)
1月3日 テネシー州ナッシュビル。ヒロ・マツダと組んで「NWA世界タッグ王座」奪取。対戦相手はマスクド・メディックス。
1月12日 テネシー州メンフィス。ヒロ・マツダと組んでマスクド・メディックスを破り南部タッグ王座奪取。タッグ2冠となる。
3月12日 凱旋帰国前にハワイ入り。ジャイアント馬場、吉村道明と合同トレーニング。
3月19日 極秘でハワイ入りしていた豊登と会談。豊登の計画する新団体への参加を要請される。
4月23日 豊登と共に帰国。「東京プロレス興業」設立を発表。
6月3日 東京プロ・レスリング協会発足。
8月21日 東京プロレス旗揚げ参加選手確保のため渡米。
9月22日 斎藤昌典(マサ斎藤)と帰国。
〈マサ斎藤の回想〉
「初めて猪木さんと会ったのは、ハワイのディーン樋口さんのジムで、たしか'66年かな。東京プロレスを旗揚げする時だった。その時、アマレスしか知らなかった俺は、猪木さんからプロのサブミッションを教えられた。プロとして自分の体を守る武器を叩き込まれたんだよ」
9月23日 東京プロレス旗揚げシリーズ内容発表。
10月3日 神田YMCA体育館。猪木と若手12選手のトレーニング公開。猪木は新技コブラツイスト、アントニオ猪木・ドライバー(フロント・ネックチャンスリー・ドロップ)を初披露。
10月12日 蔵前国技館。東京プロレス旗揚げ。ジョニー・バレンタインとKOもしくはギブアップのみで勝敗を決するデスマッチを行いカウントアウト勝ち。プロレス史に残る凄絶なケンカマッチで一躍実力を認められる。デスマッチという言葉が使われたのは日本初だった。
この一戦をアントニオ猪木のベストバウトと呼ぶオールド・ファンも多い。以下は猪木によるバレンタイン評。
「バレンタインは、俺がアメリカで見て、いい体してたので気に入って日本に呼んだ選手。でも、正直、それほど凄いとは思ってなかった。それが、日本で実際に試合をやってみて印象が180度変わった。試合の後、俺の手の指の爪が全部浮いていたくらいで、アメリカで見た試合なんかより間違いなく数段凄かった。おそらく、彼自身、アメリカであんなシビアな試合をしたことはなかったと思う」
〈選手データ/ジョニー・バレンタイン〉
1929年1月1日、米国ワシントン州出身。190センチ、117キロ。本名ジョニー・ヴィニスキー。毒針エルボーを武器に、1955年、B・ロジャースを破ってカリフォルニア州選手権獲得。1966年、東京プロレス旗揚げに外国人エースとして来日。猪木との激闘によって日本のプロレス史に名を刻んだ。その後、セスナ機の墜落事故で腰と脚の骨を折って再起不能となり引退。1990年9月30日、アントニオ猪木30周年大会にゲストとして来日。バレンタインの「目で殺す」と表現された殺気溢れる眼光こそ、猪木のバーニング・アイの原点といえる。2001年4月没。
10月25日 宮城県スポーツセンター。ジョニー・バレンタインの保持する「USヘビー級王座」挑戦。引き分け。奪取ならず。
11月19日 大阪球場。ジョニー・バレンタインの「USヘビー級王座」再挑戦。2−1で王座奪取。
11月21日 東京・板橋。板谷駐車場。客が不入りのため試合を中止。怒った観客が大暴動を起こす。この事件は国内外で報道され、東京プロレスは社会的信用を失う。
11月22日 大田区体育館。ジョニー・バレンタインを2-1で退け、USヘビー級王座初防衛。
11月29日 国際プロレス・吉原功代表と共同会見。東京プロレスは新団体の国際プロレス旗揚げ戦に全面協力すると発表。
12月14日 仙台でスタン・スタージャックと引き分け、USヘビー級王座防衛。
12月15日 広島でスチーブ・スタンレーを破り、USヘビー級王座防衛。
12月18日 大阪でミステリアス・メディコを破り、USヘビー級王座防衛。
12月19日 東京体育館。スタン・スタージャックを2−0で破り、USヘビー級王座防衛。

