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ジダンのレッドカード。

ワールドカップが終わった。
フランス・・・残念! 
今大会、なんといっても復活ジダンの〝ラストダンス〟には魅せられっぱなしだったし、ラテンらしからぬイタリアの官能と程遠いサッカーはすこぶる面白くなかった。チョイワルオヤジがどうしたとか粋を気取っているくせに、審判が見落とした対戦予定チームの反則を裏でチクッてビデオチェックまでさせて選手を出場停止に追い込むなど、実はちっとも粋じゃない狡猾なイタリアのやり方に反感を覚えていた私としては、ぜひともフランスに優勝して欲しかった。

それはそれとして、ジダンのレッドカード。
行為はもちろん許されるものではない。が、主審も副審も実際には見ていなかったというのに、誰かに言われて後追いで一発レッドカードというのは納得いかない。カードを出したことが気に入らないと言っているわけではない。出すなら、即、毅然と宣告するべきだったと、そう言いたいのだ。

〝見ていなかった〟のであれば、それは〝なかったこと〟ではないのか。実際、ゲームの中で審判が反則を見落としたり見逃したりしている局面はざらにあるし、それに対して抗議すれば抗議した方がペナルティを課せられている(たとえそれが正論であっても)。サッカーのように多くの選手が複雑に入り組んだゲームでは、審判の目をあざむくのもテクニックのひとつだというのは、選手も観客も、審判だって織り込み済みの暗黙の了解のはずだ。

白か黒かの判断の精度を上げるだけなら、ビデオを使えばいくらでも可能だろう。それを百も承知で、いまなお多くのスポーツが、あえて反則や挑発といった人間的な闘いの駆け引きを許容しつつ、完全ではない人間が裁いている。その根底にはスポーツを単なるゲームではない血の通ったドラマにしたいという願いがあるからだろう。だからこそ、裁く側には微塵も躊躇があってはいけない。「見ていないものは裁けない。審判は神ではないが絶対だ」と言い切らなければならない。それは言い換えれば、審判がゲームで生じた恨みつらみのすべてを請け負うとの宣言でもある。その覚悟こそが単なるゲームに神聖さを与えるのだ。

ジダンへのレッドカードが出されなかったら、どちらに勝負が転んでも、いずれにせよ審判は非難を免れなかったと思う。そしてビデオを証拠に、後ほどジダンに対して(あるいは審判にも)ペナルティーが課せられたに違いない。審判はそんな事態を先読みしてレッドカードを切ったのかもしれない。しかし、それはそれ。試合後に決着すべき問題は試合後の第三者の判断に任せればいい。神ではない、というのは、そういう意味だ。
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by leicacontax | 2006-07-10 10:37 | Comments(0)

現実は精巧に造られた夢である。〈長谷川りん二郎の言葉〉


by leicacontax