新宿。

f0070556_10192120.jpg

新宿紀伊国屋ホールで〝つか演劇〟を観る。
しかし、もはや、そこに熱はなかった。
言葉は古びる。モラルや感覚も変化する。
やはり、様式や観念を否定した
情念の芝居には〝今〟しかなかったのだ。

f0070556_10282198.jpg

輝きや興奮が失せても、新宿は新宿。
この街は、案外、ノスタルジーを許さない。
[PR]
by leicacontax | 2015-12-12 10:52 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

能楽堂。

f0070556_18575593.jpg

f0070556_18574397.jpg

f0070556_1858289.jpg

能楽堂。
あの世と現世を結ぶ舞台。
[PR]
by leicacontax | 2015-12-07 00:00 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

追悼。市川團十郎。

十二代目・市川團十郎が亡くなった。
病気療養中と聞いていた。今年に入り、中村勘三郎の訃報もあったので、ひょっとしたら、との思いはあった。
いまは悲しみより、虚脱感と寂寥感に取り憑かれている。白血病との二度にわたる凄絶な闘病。実子・海老蔵が引き起こしたあるまじき不祥事。どうしても、團十郎を襲った晩年の不幸が、まだ、あまりにも記憶に生々しいからだ。諸々の腹立たしさや怒りや無念は、しかし、ひととき胸の奥に仕舞ってしまおう。
十年前、歌舞伎座の最前列で『義経千本桜』を観劇した。その三段目『すし屋』に〝いがみの権太〟役の團十郎が登場した瞬間を私は忘れられない。全身に漲る気迫と肌が発する神々しいまでの輝き。そして、いまもはっきり目に焼きついているのが、花道の真横、あるいは舞台の真下より至近距離で目撃した、團十郎の低く深い重心をしっかりと支えていた太腿からふくらはぎにかけての筋骨の逞しさ。当時、私は歌舞伎についてはほとんど無知の、まったくのビギナーだった。それでも、團十郎の揺るぎのない立ち姿や無駄のない所作を目で追ううち、その芸を成立させるために日々積み重ねてきたのであろう過酷な修練の存在を瞬時に理解できた。真剣に歌舞伎を観てみよう。いや、真剣に観なければいけない。心に決めたのは、それがきっかけだった。
團十郎が病に倒れたのはその舞台の翌年。復帰は叶ったものの、以降、團十郎の肉体の衰えはもはや隠しようもなかった。つまり、振り返れば、はからずも私は、十二代目・市川團十郎が心技体とも頂点に達していた最高の瞬間に立ち会っていたことになる。失われてはじめて気付く。あれこそが、至福の時間だったのだということに。

合掌。
[PR]
by leicacontax | 2013-02-04 12:51 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

追悼。中村勘三郎。

f0070556_9332172.jpg

朝、散歩から帰ってテレビを点けると、いきなり中村勘三郎死去のニュース。不意をつかれ、しばし茫然と画面を眺める。昨年あたりから何度も大病を患っていたので、舞台復帰には時間が掛かりそうだとは思っていたが、まさか、こんなことになるとは。あまりにも唐突すぎる。人生の幕引きとはかくなるものなのか。今、脳裏によぎるのは「四谷怪談」の勘三郎の面影。彼の芝居はくせがあり、演目によっては辟易することもあったのだが、岩を演じた勘三郎は文句なく素晴らしく、圧巻だった。怪談の怖さではなく、演技の凄みに全身総毛立ったのを覚えている。一度、大向こうのように声をかけてみたかった。「中村屋っ!」と。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
(写真は2003年の平成中村座)
[PR]
by leicacontax | 2012-12-05 10:17 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

本日、舞台稽古。

f0070556_3334181.jpg
〈LEICA DIGILUX3〉一昨日の歌舞伎座。
f0070556_3341175.jpg
〈LEICA DIGILUX3〉
f0070556_3343690.jpg
〈LEICA DIGILUX3〉
[PR]
by leicacontax | 2008-03-02 03:36 | 歌舞伎/演劇 | Comments(2)

f0070556_18325781.jpg


神を信じた悪魔(ドラクル)と、悪魔を愛した一人の女。
革命の足音高鳴る18世紀フランスを舞台に浄血(くり)ひろげられる、悍(おぞ)ましくも美しい禁断のゴシックホラー。
──昨日、渋谷シアターコクーンで観た『ドラクル』という芝居のキャッチコピーだ(作・演出=長塚圭史、出演は市川海老蔵、宮沢りえ、永作博美、渡辺哲、山崎一、手塚とおる、山本亨、市川しんぺー、明星真由美、中山祐一朗、勝村政信ほか)。

いま演劇界でもっとも才気溢れる長塚圭史=作・演出に市川海老蔵=主演とくれば観ないわけにはいかなかったのだが、結論からいえば肩透かし。どこをどう観ても面白さの欠片も見つけられない残念としかいいようのない凡作だった。
観終わった後、もし、舞台に幕が下りていたなら、おそらく私はカーテンコールを待たずして席を立ったと思う。実際には幕は下りないまま舞台が明るくなってカーテンコールへとなだれこんでしまったためその機会を逸したのだが、これだけの顔合わせによる話題作だったにもかかわらず、カーテンコールは一度きりでぱったり途切れた。私はこれまでの長塚作品と海老蔵のファンなので、期待が大きかった分、失望も人並み以上だったのかもしれないとも思ったのだけれど、さっぱりと拍手を止め、そそくさと帰り支度を始めた満員の観客達の態度を見て、とくに私だけが偏った見方をしていたわけではなかったのだと確信した。

物語や細かな演出については、これから観劇する方々の妨げになるので記述は控える。ただ、このもやもやとした感じ(怒りを通り越した脱力感)を書きとめておかないことにはどうにも気が収まらない。したがって、ここから先は私が失望した大まかな理由である。

長塚作品では総じて日常の不気味さや、突如として目の前の日常が崩壊して別の新たな絆や価値観が生まれて行くさまが鮮やかに描かれている。練られた台詞。緊張感を生み出す独特の間。観客の生理を逆なでするグロテスクな仕掛け等、彼が描く細部に至るまで挑発に満ちた世界はつねに刺激的である。対する海老蔵はというと、行く行くは江戸歌舞伎の宗家である市川團十郎という偉大な名跡の襲名を宿命づけられた御曹司の中の御曹司でありながら、そのキャラクターは奔放で破天荒。歌舞伎役者としてはまだまだ未完だが、早い段階から小さくまとまってしまう役者(それは歌舞伎に限らない)が大勢を占める中、彼の美しさとぎらぎらした輝きは唯一無二──圧倒的な存在感を放っている。
 
そんな両雄の顔合わせ。期待するなという方が無理だ。
長塚が描く狂気の世界と海老蔵の怒りが真正面からぶつかり合い、何が生まれるのか、あるいは、どちらかが相手に呑まれてノックアウトされ、舞台は破綻して終わるのか。私は舞台に完成度ばかりを望んでいない。時には破綻のスリルの快感がそれを凌ぐこともあるからこそ、長塚と海老蔵の顔合わせには胸がときめいたのだ。
そもそも長塚の台詞と間と時に生理を逆なでする演出(所謂残虐美)は、歌舞伎にも往々にして見られる。その意味でも、ひょっとすると新しさを通り越して正統な歌舞伎芝居の誕生もあり得るとまで、私は妄想してしまっていた。

はたして現実は、まず、幕開けの、ひたすら神に懺悔する生活を送る海老蔵吸血鬼と、その吸血鬼に心の平穏を与えた宮沢りえ演じる聖女の隠遁生活という場面からちぐはぐだった。なぜかというと、長塚は過去の芝居とこの芝居は違うと主張するかもしれないが、どう考えてもこのドラマも、まず平穏な日常ありきで始まり、それに何らかの事件が起きてヒビが入り、そして予想だにしない展開に突入していくであろうことは端から明白。にもかかわらず、これから破綻に向かうはずの日常が、最初から誰が見ても壊れているのだから展開のしようがない。悲劇とは、壊されてしまう、あるいは奪われてしまう幸福とのコントラストに他ならない。なのに、この芝居、吸血鬼と聖女が登場した瞬間から不幸の匂いしかしない。だから、その先、次々に事件が起きて不幸な展開になってもハラハラもドキドキもしない。あきらかにシナリオの失敗だと思う。

海老蔵の芝居も起伏がない。それはもしかしたら演出のせいかもしれないが、それにしても、怒りも悲しみもついに沸点に達することのない芝居だった。そのくせ、序盤の弱々しい吸血鬼の眼光が強過ぎるのは不自然で、加えて、悪魔の心を変えてしまう聖女役の宮沢りえの芝居に温もりがないため、悪魔と聖女のツーショットがただ美しいだけのマネキンにしか見えない。そう、演出も役者の演技も、全体にひどく沸点が低く感じられてならなかったのだ。

善と悪。神と悪魔。西洋のドラマの基本はその対立にある。長塚はこの芝居の第二幕で神の側に立つ人間たちの醜さを描き、そこに人の世の普遍性を描こうとしたようだが、肝心の悪魔の悲しみと絶望と怒りも、人間の欲望の穢らわしさも中途半端で迫って来ない(宗教観の曖昧な我々日本人に神を語られてもぴんとこないし、長塚氏自身、どれほど宗教に関心を持っているのか? この芝居を観る限り、その辺りの見識の深さも感じられなかった)。
長塚作品の鋭いエッジもなければ甘美な毒も海老蔵の鮮烈な輝きもない。せめて壮大な失敗作のカタルシスでもあれば少しは救いがあったのに──腹が立つほど凡庸でストレスだけが残った。
(文中敬称略)
[PR]
by leicacontax | 2007-09-08 18:51 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

昨晩、新橋演舞場にて劇団☆新感線『朧の森に棲む鬼』二回目の観劇。
千秋楽(本日)の前日であったが、前回観た公演に比べて格段の進歩! 完成度の飛躍的高まりに素直に感動。やはり、舞台は生き物。これだから芝居見物はやめられない。つい、散財も惜しくなくなる。
多分なされているに違いない細かな修正点は記憶との比較なのではっきりしないものの、前回感じた第一幕のもたつきは明らかに解消されていた。なにより、それぞれの配役の存在感が増していた。いわゆる、キャラがはっきり立ったということだ。正直、この前は〝マダレ〟を演じる古田新太がなんとなく楽をしているように感じられて物足りなかった(意図的だったのだろう、一歩後ろに退いている感があった)。それが今回は見違える存在感。とく演技が大きくなったわけでも、エキセントリックになったわけでもないのだが、その辺はさすが当代一流の舞台俳優。古田の凄みと人間味が増したことで、舞台全体の重量配分が絶妙に変化した。なかでも〝ツナ〟演じる秋山菜津子との関係性がかなり際立ち、重みを増したことで一層ドラマが厚くなった。
この舞台で最大の儲け役〝キンタ〟演じる阿部サダヲの充実ぶりも言うまでもない。馬鹿ゆえに純粋なキンタの哀しみと切なさに磨きがかかり、前回は感じられなかった色気となって伝わってきた(ちなみに一緒に観劇した「阿部サダヲはちょっと苦手」と言っていた友人も、今回の彼の演技には大満足の様子だった)。
そして圧巻は染五郎。前回は歌舞伎でいうところの色悪の延長にしか見えなかった〝ライ〟という人物が、見事、大悪党に変身。終盤になるにつれて凄みを増す立ち回りは、『阿修羅城の瞳』(2003年の再演)を思わせる迫力! 素晴らしかった。
スタンディングオベーションの興奮も醒めやまぬまま劇場を出ると雨が。しかし、舞台に降り注いだ本水による雨の演出の続きかと思えるくらい気分が昂揚していた。濡れて帰るのも、まったく苦にならなかった。(文中敬称略)
[PR]
by leicacontax | 2007-01-27 07:42 | 歌舞伎/演劇 | Comments(1)

昨日、新橋演舞場にて劇団☆新感線『朧の森に棲む鬼』(いのうえひでのり/演出、中島かずき/作、市川染五郎/主演)観劇。

再演が続いていた新感線による久々の新作〝いのうえ歌舞伎〟。
物語は王になるためには手段を選ばない男を描いたシェークスピアの『リチャード三世』を下敷きにしたピカレスクロマン。見所は、これまでの新感線的(=劇画的)〝勧善懲悪〟からの脱却と、その枠内でヒーローを演じてきた染五郎が、今回、どこまで救いのない悪を演じきるか。
しかし、結果は、物語の作り、染五郎演じる『ライ』(嘘という意味そのものか)という主人公の人物造形共、〝冷酷さ〟や〝権謀術数〟より、その場しのぎの〝嘘〟を描くに止まっており、欲望全開の人間が放つ悪の魅力やエネルギーはあまり伝わらず。

ライという男は生まれもっての嘘つきであり、嘘をつかなければ生きられない人間。彼にとって嘘をつき通すことが人生であり、王位を狙うという遥かな野望は、たまたま、朧(おぼろ)の森に棲む魔物たちに魔力を与えられての思いつきに過ぎない。
誰も逆らえない超自然的なパワーを与えられた人間が、すべての欲望を満たすため、権力の頂を目指すのは当然の成り行き。したがって、私にはむしろライの野望や所業を特別な悪事とも思えず、戦争という物語の背景もあって、はなから全体を貫く善悪の基準が曖昧に感じられた。
そもそも、新感線の芝居は勧善懲悪といっても、つねに主人公は正義という大義に対して疑いを抱き、物語の面白さも善悪入り乱れた混沌の様にある。今回の主人公ライは自ら悪を宣言しているから悪とされているだけで、実のところ、物語の根本は善も悪もない混沌のままであることに変わりはない。
数年前から、演出のいのうえひでのりは新感線の芝居を〝見せ場主義〟から〝ドラマ主義〟へシフトしていると公言しているが、物語の構造はそのままでそれを実現するのは無理があるように思えてならない。

と、いろいろ否定的感想を述べたが、それはこれまでの新感線との比較であってこの芝居の否定にはあらず。シェークスピアを下敷きにしているといっても、新感線が徹頭徹尾エンタテインメントであることは間違いなく、面白さにおいては文句のつけようのない一級品だ。
序盤こそ冗長な印象。が、物語が進むにつれ俳優たちがそれぞれの持ち味を発揮して飽きさせない。染五郎の隙のない美しさと確かな芸はさすが。さらに、染五郎の悪との対比として登場する阿部サダヲが素晴らしく、観る者をぐいぐいと物語に引き込む(儲け役でもある)。王の側室役の高田聖子の演技も凄みがあった。いのうえひでのりの言う人間ドラマの表現が成功しているパートがあるとすれば、それは高田聖子の出演場面だろう(ここのところ、確実に高田聖子は舞台女優として風格を増してきている)。これが新感線初出演の真木よう子の美しさと声の良さもマル。そして第2幕はまさに圧巻。これぞ新感線という加速感! ラスト、新橋演舞場ならではの〝本水〟を使った演出も陰惨な物語に美しい余韻を与えることに成功している。
興味のある方、ぜひ、劇場へ。絶対、観て損はない。(文中敬称略)

f0070556_18434686.jpg

朧の森に棲む鬼〈新橋演舞場1月公演〜1月27日まで〉
[PR]
by leicacontax | 2007-01-06 18:50 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

花形歌舞伎。

f0070556_019340.jpg
〈RICOH GR DIGITAL〉

昨日、妻と新橋演舞場〝花形歌舞伎〟昼の部観劇。
花形歌舞伎とは、いわゆる若手のホープといわれる20代から30代の役者たちによる舞台。60代で全盛を迎える歌舞伎の世界では、厳しい言い方をすれば彼らはまだまだ〝ひよっこ〟。その発展途上の役者たちが歌舞伎座の檜舞台で主役を張れる機会はめったにない。そんな彼らに大きな役を経験させるのが花形歌舞伎というイベントの主旨。したがって、通常だと、どうしてもB級の興行というイメージは免れない。
ところが、今回の花形歌舞伎は違う。何が違うといって、とにかく豪華。なにしろ、市川海老蔵、尾上松緑、尾上菊之助の3大スター久々の揃い踏み(若手の中でも彼は別格)。さらには演目も昼の部だけで海老蔵・菊之助の「勧進帳」、菊之助・松緑の「弁天娘女男白浪」と大定番連発! 3大スターそれぞれに見せ場を用意した結果なのだろうが、こんな出し惜しみのないラインナップは歌舞伎座の本公演ではあり得ない(夜の部には海老蔵が宙乗りを披露する「義経千本桜」まである)。最近、歌舞伎座にかかる演目に食指が動かず足が遠のいていただけに、それだけで嬉しかった。

公演は「番町皿屋敷」からスタート。ちなみに、この芝居は「1ま〜い、2ま〜い」という怪談仕立てのそれではなく、好きな男の本心を確かめるためにわざと大切な皿を割る疑り深くて頭の悪い女と潔癖性の男の色恋噺にアレンジされた大正時代に書かれた芝居。私、基本的にこの演目はどうしても好きになれない。大好きな松緑の熱演は光ったのだけど、中村芝雀の演じる〝お菊〟に哀れさ儚さが感じられず・・・やっぱり感情移入できなかった。残念。

さて、本日の最大のお目当てであった「勧進帳」。市川海老蔵〝弁慶〟と尾上菊之助〝富樫〟の顔合わせは予想以上によかった。海老蔵は相変わらず直球一本槍で緩急のなさが目立ったが、それも若さゆえ(28歳は歌舞伎では若すぎる)。そもそも60代に差しかかった当代随一の〝弁慶役者〟松本幸四郎や父・市川團十郎と比べること自体無理。ただ、こんな弁慶は20代でしかやれない。そう思わせるエネルギーと爽やかさ、美しさが海老蔵・弁慶にはあった。スタイルはビデオで観たことのある11代目・團十郎(海老蔵の祖父)そっくり。たぶん、意図的に父(12代目・團十郎)とは異なる演じ方をしているのだろう。現時点でそれが海老蔵に合っているのかどうかは判断できないが、いまはやりたいようにやればいいと思う。歌舞伎役者の道のりは遥かに遠い。体力、風貌、考え方の変化に合わせて芝居も違ってくる。円熟は、まだまだ先の段階だ。

一方、「勧進帳」で〝富樫〟(弁慶の義経への思いに打たれ、騙されたふりをしてお尋ね者である一行の通行を許す、情けある関所を守る武士)、「弁天娘女男白浪」で〝弁天小僧〟(美しい女装をした盗賊)を演じた尾上菊之助は海老蔵と正反対。29歳という若さで、すでに演技は完成の域に達しつつある。両親ゆずりの容姿の美しさ、演技の正確さ、気品と三拍子揃った菊之助はまさにサラブレッド。天才だ。少し前までは女形としての美しさばかりが目立っていたが、着実に芸の幅を広げている。少なくとも今回演じた〝富樫〟に関しては、私の好みでいえば父・尾上菊五郎のナルシスティックな演技よりよかった。〝弁天小僧〟に関しては、女から男へ変貌する瞬間の凄みという点で、まだ当分、菊五郎には及ばないと感じたが、それも菊之助が天才だからこその要求の厳しさ。この人は本当に末恐ろしい役者だと思う。

個人的にはこれで今年の歌舞伎は見納め。松緑、海老蔵、菊之助で締め括ることができて、とても満足だ。
[PR]
by leicacontax | 2006-11-19 02:38 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

f0070556_14493064.jpg


TEAM-NACS2005全国ツアー『CONPOSER─響き続ける旋律の調べ』をDVDで観る。
TEAM-NACSとは北海道を本拠に活動を続け、地元で絶大な人気を誇る劇団だ。まだまだ演劇ファン以外には知られていないが、最近では、テレビドラマやバラエティで活躍している大泉洋が所属する劇団として、徐々にその名が全国区になりつつある。
メンバーは森崎博之、安田顕、佐藤重幸、音尾琢真、大泉洋の5名。芝居の内容によって客演もあるが、基本的にこの5人がめまぐるしく役を替わりながらスピーディーに話を展開させるのが特徴だ。
この劇団、ほんの少し前まで北海道限定で活動していたとは思えない実力を有している。森崎博之の戯曲と演出は私が知る限りハズレがないし、とにかく5人とも芝居が巧く、ローカルにありがちな自己完結の匂いがしない。大泉洋など、テレビとはまるで別人。舞台俳優としての彼のポテンシャルは相当に高い。

で、『CONPOSER─響き続ける旋律の調べ』なのだが、これがまた面白かった。
ベートーヴェン(大泉洋)とその息子(音尾琢真)、シューベルト(佐藤重幸)の3人の愛憎関係を利用し、モーツァルトの怨霊(安田顕)がそれぞれを破滅へ誘う。モーツァルトの目的は自身が未完成に終わったレクイエムを超える絶望の旋律を後世の作曲家に書かせること。この世に恨みと未練を残して死んだ(愛する妻に毒殺されたという設定)モーツァルトは、その絶望の深さゆえ、さらなる絶望の調べを聞かない限り成仏できないのだ。
大泉洋の髪型がベートーヴェンに似ているというただそれだけの理由をきっかけに書かれた戯曲だというが、史実と虚構を巧みに再構成した物語は『アマデウス』を彷彿させる。そして、そのアマデウスによって歴史的ヒールにされてしまったサリエリを、この劇ではモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトという3人の天才作曲家のよき師、理解者として描いている点が興味深かった。
サリエリがモーツァルトの才能に嫉妬して彼を破滅へ追い込んだという説がいまやすっかり定説になっている感があるが、そもそも、それを流布したのは、あまりにも有名になった『アマデウス』という舞台であり映画だった。『CONPOSER─響き続ける旋律の調べ』を書いて自らサリエリを演じた森崎博之はDVDに収録されているインタビューで、あまりにもサリエリが可哀想に思えて仕方なかったと、その正反対の解釈の理由を語っている。この作品に限らず、森崎は登場人物に対していつも優しい。たとえ虚構の物語にしても、特定の人間を徹底して悪人に仕立て上げたくないという彼の温かさは、そのままTEAM-NACSの芝居の後味の爽やかさにつながっている。
[PR]
by leicacontax | 2006-10-09 16:23 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)