カテゴリ:プロレス/格闘技/ボクシング( 60 )

2010年 09月 27日
TJさんへの回答。
みなさんから自由に書き込みをいただいている〈『33年ぶり!! 猪木・アリ 異種格闘技世界一決定戦 死闘の舞台裏』を見た。〉のコメント欄がそろそろいっぱいになってきましたので、あらためましてここにTJさんへの回答という形で、最近、私が格闘技やアントニオ猪木について感じたことを久々に記します(コメント欄でも回答済みですが一部補足しました)。

>木村さん、ごぶさたしています。
UFCでのフランク・ミア v.s. ミルコ ですが、フランク・ミアってほんとうに強いのだな、って思いました。
それと、石井ですが、やっと猪木のところにアドバイスをもらいにいったようですね。猪木のタオルをかけて猪木のテーマを使わせてもらっている以上、どうしても負けられない、という決意がくみ取れました。

TJさん、こんばんは。
ミルコ選手が柔術系のミア選手に膝蹴りでKOされたというのはかなりショッキングでした。
レスナー選手を破ったこともある実力者のミア選手ですから、その結果には驚きませんでしたが、私はいまだにミルコ選手が本来の実力を発揮しきれずにいることが気になっています。案外、命の危険を省みない職業を経験したことのある、あるいは本物の戦場に生まれ育ったミルコ選手のような人間は、逆にすべてが管理された金網でのファイトには不向きなのではないか・・・ふとそんな気がしたのです。

というのも、ミルコ選手が活躍してきたK-1やPRIDEのリングでは、いざとなれば体の一部だけでも場外へ逃がすことができたし、ロープ際でのストップ・ドント・ムーブなどのルールも同様に利用することが可能でした。プロレスの反則ファイブカウントやロープブレイクや場外へのエスケープほど自由ではないにしても、K-1やPRIDEにも同様の曖昧なニュアンスは残されており、百戦錬磨のファイターほどそれを巧みに使いこなしてダメージを防いだり戦局をコントロールしたりしてきたことは間違いありません。

元々、真剣勝負とは勝つ為にはなりふりかまわない、端から見れば身も蓋もないものです。喧嘩や果たし合い、あるいは命のやりとりのような極限状況の闘いになればなるほど、相手の意表をつくこと(試合ならルールの間隙をつくこと)が勝利の重要な鍵であることは、〝真剣勝負の神〟宮本武蔵の数々の果たし合いにおける非道や卑怯にさえ見えるシビアな戦術を振り返るまでもなくあきらかです(武蔵は勝って生き残るため、つねに闘いの現場の状況や気候や対戦相手の心理まで計算し尽くし、絶対に自分が不利な状態では闘わなかった)。

しかし、UFCに代表される現代の総合格闘技はリアルファイトであることを視覚的に強調するため、逃げ場のない金網ファイトを考案しました。オクタゴンと呼ばれる八角形の金網の内側はファイトに集中するしかない究極の格闘空間となり、その空間においてもっとも有利で効果的な技術だけがさまざまな格闘技から取捨選択され、洗練されたことによって競技としての完成度は一気に高まりました。しかし、興行の規模が拡大するにつれ、事故を完璧に回避する必要にも迫られ〝フリーファイト〟のイメージとは裏腹に細部まで管理された闘い=スポーツとなっていった。つまりUFCはあくまでボクシングに代表される近代格闘技の定義の拡大に過ぎないわけで、私には正直、ミルコ選手のUFCにおける闘いも、K-1やPRIDE時代よりもスポーツライクにしか見えないのです(良くも悪くも、日本の格闘技イベントにはスポーツに収まりきれない何かがある、と感じるのは私だけでしょうか)。

石井彗選手に『炎のファイター』と『闘魂タオル』の使用が許可された件については、はっきりいってなんだか釈然としません。
というのは、プロレスという限界を設定しない枠組みを用い、格闘技からショーから喧嘩から、時には命のやり取りまで辞さない闘いをやってみせてきたアントニオ猪木と、柔道は柔道、総合は総合、プロレスはプロレスと、いちいち区別して考えるのが常識となった、いまどきの格闘家の思考から一歩も出られそうもない(事実、彼の窮屈そうなファイトがそれを体現している)石井選手とでは根本が違い過ぎます。
たぶん、総合格闘技に憧れて育った世代の石井選手には、かつてのプロレスやそれを自由自在に操ったアントニオの感性は土台からして理解不能・・・私にはそうとしか思えないのです。
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by leicacontax | 2010-09-27 23:17 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(27)
2010年 08月 30日
合掌。
元プロレスラーで新日本プロレス審判部長としても活躍された山本小鉄氏が28日に亡くなられました。
小鉄さんには取材にご協力いただいた他、夕飯をご一緒させていただいたこともありました。
その真っ直ぐで誠実な人柄や、六本木の小料理屋でご馳走になった鯛茶漬けの美味は忘れられません。
ありがとうございました。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
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by leicacontax | 2010-08-30 03:35 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(4)
2009年 02月 08日
『33年ぶり!! 猪木・アリ 異種格闘技世界一決定戦 死闘の舞台裏』を見た。
 昨晩放送の『テレビ朝日が伝えた伝説のスポーツ名勝負 〜いま明かされる舞台裏の真実〜 33年ぶり!!猪木・アリ 異種格闘技世界一決定戦 死闘の舞台裏』を見た。
 アントニオ猪木が33年ぶりに初めてフルラウンドの試合VTRを見てコメントするというのが番組の売りだった。だが、そちらの方は残念ながら肩透かし。『アリは不当に薄いグローブ(4オンス)を着用のうえに中のバンテージもシリコンで固めていたらしい』とか『がんじがらめの変則ルールを呑まされた猪木陣営もシューズに薄い鉄板を仕込もうとした』とか、語られた内容は猪木ファンなら周知の事実。私も猪木本人に何度もインタビューしたうえで、著書の中で繰り返し書いてきた話だった。
 しかし、猪木を15ラウンド寝て闘わざるを得ない状況に追い込んだ肝心の変則ルールが『なぜ試合前に観客や視聴者に説明されなかったのか?』あるいは『なぜ実況中継の中で一言も触れられなかったのか?』という長年の謎は解けた。

 この世紀の一戦が大凡戦と酷評された最大の原因はいうまでもなくプロレス技のほとんどを封じたいびつなルールなのだが、私はそれに加え、当日のテレビの生中継でアナウンサーが説明責任を怠った点も大きかったと思っていた。
 その点については十数年前、当時、猪木・アリ戦を担当したテレビ朝日のプロデューサーに直接取材したことがある。が、はっきりした回答は得られず、私はてっきり、テレビ局側の不手際を認めたくないがゆえの保身の態度かと苦々しく受け止めていたのだが──事実は違っていたのである。
 番組中、VTRでインタビュー出演した、当時、アリ側と直接交渉を行った新間寿氏の言によれば、変則ルールを呑んだ際「一切、ルールについては事前に公言しないこと」と念押しをされ、よってアナウンサーにもその事実は知らされないまま実況中継が行われた──それがことの真相だったのだという。なるほどそうだったのかと、ようやく納得できた。

 この番組で久しぶりに猪木・アリ戦の全体像を振り返って、あらためてプロレスラー・アントニオ猪木の凄さを再確認した。
 おそらく、最近の格闘技しか知らないファンには、アリ戦を実現するために20億円(あくまで当時の20億。現在の貨幣価値ならその数倍に相当する)もの巨額の資金調達に自ら奔走し、しかも試合ではまったく不利なルールを全面的に受け入れてまで試合を実現させた猪木の行動は意味がわからないに違いない。

 近年、プロスポーツの一流選手ともなれば、プレイに専念できるよう、周囲のスタッフやエージェントなどがありとあらゆるお膳立てをするのが当り前になっている。格闘技も然り。総合格闘技というジャンルが確立し、UFCをはじめとする幾つかの世界的組織が力をつけて以降は、格闘家も金やルールといったもっとも厄介な問題で頭を悩まし、神経をすり減らすことなくファイトに専念できるようになった。結果、さまざまな格闘技のチャンピオン同士の闘いの実現が、そう難しいことではなくなったわけだが、猪木・アリ戦は、そんな常識化した格闘技とは対極の一戦──あらゆる意味で前例のない、常軌を逸した『あり得ない闘い』だった。

 仮に、モハメド・アリに並ぶステイタスを持つプロボクシングの現役ヘビー級チャンピオンがいま存在したとして(当時のアリはジャンルを超越したアメリカの国民的英雄)、その選手がUFCや他の格闘技のチャンピオンと闘うだろうか?
  UFCがどれだけ人気を高めたとしても、ボクシングのヘビー級王者から見ればまだまだマイナーだ。スポーツ界におけるステイタス、ファイトマネーなどの面から考えて、ボクシングの現役チャンピオンには他の格闘技のリングに上がらなければならない理由はどこを探しても見つからない。どっちが強いかはっきりさせようなどという男のロマンも、相手を同格と認めないことには浮かばない発想だ。もし、よしやろう、となったとしても、そのときは当然、相手にはボクシングルールを要求するに決まっている。それは『格上』の者からすればきわめて常識的発想で、実はアリが猪木に突きつけたルールも、見方を変えればボクシングルールで闘えという命令に過ぎず、そこには『アンフェア』で『理不尽』な『変則ルール』を押し付けようなどという意図はそれほどなかったように思う(アリに怪我をされては困るブレーン達の考えはまた別だったろうが)。自他ともに認めるスーパーアスリートのアリにとって、ボクシングルールは曲げられないプライドそのものだったのは間違いない。

 そもそも、エキシビションを除き、異なる格闘競技者が観客を前に真剣勝負で闘うという概念すら存在しなかった時代、幅広い技術体系を持つプロレス(しかも猪木はカール・ゴッチから受け継いだキャッチ・アズ・キャッチ・キャンという格闘技術をベースにしたシュートテクニックを持つ)と、パンチの攻防に特化された特殊な競技ゆえスポーツとしてステイタスを得たボクシングの勝負は、現実に競技として行うとなれば、もっともイメージが難しい水と油の組み合わせ。しかも、かたや世界的スーパースターのモハメド・アリ。それらを考え合わせれば、やはり、猪木・アリ戦は実現した時点で奇跡的出来事だった。

 話を戻すなら、私があらためて再確認したアントニオ猪木の凄さとは、その奇跡を、プロモーターとしてファイターとして、あらゆるリスクをすべて引き受けることで自ら起こしてみせたエネルギー、覚悟、夢への執念に他ならない。ちなみに猪木は、アリ戦の直後、日本国内だけでなく世界中からバッシングされたうえに当時の金額で4億円以上の負債を抱えた。それでも、やりたいことがあればどんな犠牲を払ってでもそれに邁進する猪木の姿勢は何一つ変わらなかった。

 思い起こせば国会議員として行った湾岸戦争時の命懸けの人質救出然り(ほとんど知られていないが、あの時の飛行機のチャーター費用も猪木が私費を投じたものだった)、世界の食糧事情やエネルギー事情を見据えた壮大な事業然り、アントニオ猪木はリングを離れてもずっとアントニオ猪木であり続けている。こんな人間、やっぱり他にはいない。

 プロレスファン、格闘技ファンとしては、その巨大なエネルギーのすべてを、もし、プロレスや格闘技だけに注ぎ続けてくれていたら、あるいはもっと凄いファイトが幾つも観られたのではないかという思いもある。が、それはないものねだりだ。
 猪木は言っていた。
「もしアリ戦で私が勝っていたら、その時点で引退するつもりでいた」
 アントニオ猪木にとって、アリ戦はファイターとして究極の夢。それがああいう形で終わってしまった以上、もはや、リングに人生を懸ける夢はなかったのだ。
 私は思う。
 競技として整備され、常識化した総合格闘技では、猪木・アリ戦のような夢は、おそらく二度と見られない。
 人間の本当の強さは、勝ち負けを超えたリスクの存在なくして推し量ることはできない。私はそれを、あの二度と見られない奇跡の闘いに学んだ。(文中敬称略)
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by leicacontax | 2009-02-08 12:43 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(40)
2008年 12月 07日
K-1のこと。IGFのこと。久々に思いきり語りたくなった。〈その2〉
さて、次はプロレスについて。
少し前になるが、名古屋で行われたIGFの「GENOME7」をTV観戦した(11月24日スカパーにてペイパービュー)。
GENOME7のテーマは「原点回帰」。そして大会の見所はなんといっても旧UWFインターナショナル勢(高山善廣選手、金原弘光選手、松井大二郎選手)と初代タイガーマスク選手、藤波辰爾選手の初参戦だった。
新日ストロングスタイル及び、その流れを汲むUWFスタイルを身に付けた彼らが、すべての原点であるアントニオ猪木が新たに作り上げたIGFというリングでどんなファイトを見せるか? 
個人的には、この参戦によって何も生まれないようであるなら、もはやIGFに先はないような気がしていた。

1年半前にIGFが旗揚げされた際のメインテーマは「プロレスの復権」。
しかしながら、毎回、IGFのリングで繰り広げられるファイトからは一向にプロレス復権の具体的な方法論が見えてこなかった。
ジョシュ・バーネット選手、高橋和生選手、タカ・クノウ選手といった、たしかな格闘技術をベースにした選手たちによる格闘技テイストのプロレスや、あるいは圧倒的身体能力を利したザ・プレデター選手やモンターニャ・シウバ選手のモンスターファイトなどは、時折、往年のストロングスタイル・プロレスが醸し出していた怖さという香りを漂わせていて可能性を感じさせた。とはいえ、それはあくまで個々の力量のなせる技。IGFという団体のプロデュースによるものでないことはあきらかだった。
それがである。「GENOME7」に至って、初めてIGFの掲げる「プロレスの復権」の方法論がはっきり見えたのだ。

まず気付いたのが、視界を遮り、観客の集中力を殺いでいた「照明用の鉄骨の柱」とステージからリングへ続く「花道」が撤去されたこと。そして現れたのは──’80年代まで長年我々が親しんでいたプロレス会場の風景。会場という空間からして、目に見える形で原点回帰が具現化されたのである。
そんなことか、と笑う人もいるだろう。しかし、侮るなかれ。これは緊張感を生み出す上でかなり重要なポイント。

選手入場というのは、観客にとって期待感が最高潮に達する瞬間だ。これはボクシングも格闘技もプロレスも変わらない。戦場に向かう選手の緊張感とそれを見守る観客の期待感が重なり合い、共同で会場のボルテージと集中力を高める重要な儀式の時間。この気持ちを合わせる儀式がうまくいってはじめて試合開始と同時に観客もじっくり試合に集中する事が可能になる。ところが、’90年代以降、ドーム球場や巨大アリーナで興行が行われるようになり、選手登場からリングインまでの過剰ともいえる演出が当り前になると──儀式は次第に形式と化してしまった。

演出そのものは否定しない。単純に楽しいと思う。しかし、演出とはそもそも本筋部分を盛り上げるための工夫であり、あくまで主役である選手登場に添えられる彩り。それ自体が見せ場ではない。ところが、姿を現すだけで勝手に周りが盛り上げてくれるようになったせいで、選手はあたかもそれが自分の仕業であるかのように勘違いして自分を見失っていく。

ボクシングや格闘技の場合、花道の向こうに待っているのは必ず勝利か敗北かという過酷な結果だ。したがって、花道や演出があろうがなかろうが、選手の心構えに揺るぎはない。観客もそれを十分承知しているから演出に気を取られて緊張や集中を切らすことはない。
ところが、プロレスは違う。勝ち負けという結果そのものにさして意味を持たないプロレスは、選手自身がしっかりと緊張感や決意のようなものを抱いて花道を歩かなければ途端に演出に呑み込まれてしまい、観客も演出を楽しむうちに集中力を欠いてしまう。
ゴングが鳴ってから集中力散漫になった観客の注意を惹くのは至難の業だ。それに花道という大掛かりな装置や派手な演出に呑み込まれないプロレスラー自体、そもそもそうざらには存在しない。歌舞伎や演劇といった人目を惹いてなんぼのプロフェッショナルたちの世界でさえ、長い花道に負けない存在感を示せる華のある役者はごく一握り。逆に言えば、花道というのは、そこを歩かされたが最後、器量のほどが丸裸にされてバレバレになってしまう恐ろしい場所なのだ。

しかし、自分を見失ったレスラーはその恐ろしさに気付かないまま花道を緊張感なく単なる通路のように歩き、観客はそのあまりに普通過ぎる姿を見て冷めてしまう・・・そんなことがずっと当り前に繰り返され、慢性的に会場の盛り上がりに水を差し続けていた。
IGFが花道をなくして昔ながらの選手入場に戻したのは、したがって大正解。だいいち、群がるファンの間をかき分けてレスラーが登場した方が見た目に一体感があり、試合そのものに期待感を直結させやすい。

そしてGENOME7の最大の収穫。それは第1試合から第3試合のいわゆる前座試合にあった。
第1試合「金原弘光vs.鈴木秀樹」、第2試合「浜中和宏vs.松井大二郎」、第3試合「アレクサンダー大塚vs.タカ・クノウ」。この日がデビューの鈴木秀樹選手(UWFスネークピットジャパン)に第1試合から実力者・金原弘光選手が胸を貸すというマッチメイクは絶妙。リングスではエースも務めた金原選手という高い壁を相手に、初めての試合で持てる力のありったけをぶつけることができた鈴木選手は幸せだったと思う。鈴木選手は体もしっかり出来上がっていて、随所にビル・ロビンソン譲りのキャッチ流の本格テクニックも披露。第1試合で久々に見た静かで熱いレスリングの攻防は、まさにかつての新日本の緊張感を彷彿させたし、それは観客にも伝わっていたように感じられた。

第1試合で引き締まった雰囲気は、そのまま第2試合、第3試合にも引き継がれる。
浜中選手と松井選手は元同門。双方ともPRIDEで総合経験もある。しかしながら、いままでのIGFの場合、総合経験者同士の試合はどうしても疑似格闘技スタイルに流れがちで、必ずしも迫力に結びついていなかった。
それはどんなに内容のある攻防をしても、総合スタイルを意識してパンチを繰り出した途端に観客がしらけ、逆にそれまでのすべてが嘘に見えてしまうという最悪のパターン。いっそのことグローブ着用をいっさい禁止し、従来のプロレスと同じ平手の張り合いに戻した方がよほど迫力があると感じていたのは私だけではなかったと思う。
が、浜中vs.松井の試合はそんなうわべだけをなぞった中途半端さは微塵もなく、気迫を前面に出した両者のファイトは、かつてのストロングスタイルプロレスに垣間みられた、闘っている者同士にしかわからない駆け引き──もうひとつの見えない闘いの存在を感じさせた。おそらくはそれが気迫となって観る者の心にも届いたのだろう。この試合、文句なく、IGFおける浜中選手のベストバウトだった。

玄人ファンなら誰もが認めるアレクサンダー大塚選手と、どこか劇画チックな地下プロレスを想起させる柔術家タカ・クノウ選手の試合も見応えがあった。
IGFでプロレスラーとしてデビューして以来、レギュラー出場を続けているタカ・クノウ選手は、その高度な柔術テクニックによって毎回観客を唸らせてきた。しかし、プロレスラーとしてのキャリアの浅さと、相手にもテクニックがあってはじめて噛み合うテクニシャンの宿命か、これまで必ずしも持ち味を発揮していたとはいえなかった。それがアレクサンダー大塚という懐の深いレスラーを相手にしたことで、流れる様に美しい柔術の技を存分に繰り出すことができた。高い技術を引き出し合う駆け引きもまたストロングスタイルの醍醐味。その意味において、この一戦も紛れもなく原点回帰というテーマを体現することに成功していた。

第5試合「ザ・プレデターvs.ネクロ・ブッチャー」、第6試合「高山善廣vs,モンターニャ・シウバ」はプロレスのもう一つの面白さである喧嘩ファイトとスケールの大きなモンスターファイトの魅力満載。それぞれの選手の持ち味が存分に発揮されていて、かつ、開放感満点の、これぞプロレスだった。

セミファイナル「藤波辰爾vs.初代タイガーマスク」。
10分1本勝負というエキシビションながら、一世を風靡したプロレス界のスーパースター同士の初対決はまさにレジェンド対決。遅過ぎたことは否めないし、そんなことは誰しも百も承知。が、このカードの背景にはアントニオ猪木を中心とする離合集散の大河ドラマのような愛憎劇も横たわっており、長年プロレスを見て来た者にとって、この一戦は歴史の総括でもあった。

はたして、試合は濃密なストロングスタイルの好勝負となり、10分はあっという間に過ぎてしまう。たしかな技術の応酬はそれだけで観る者を魅了する。
相手の技術を封じ込めた者が勝つ格闘技や他のスポーツから見れば、それは馴れ合いやインチキにしか見えないかもしれない。しかし、そこで交換される技の一つ一つが説得力のある本物ならば、それを観客に提供するメインディッシュに据えたとしても決して不純ではないし、潰し合いとは別次元のれっきとした格闘技たりえると私は思っている。
若き日、カール・ゴッチとアントニオ猪木から強さを叩き込まれた藤波辰爾と初代タイガーマスク。両雄の高度で味わいのある技の応酬は、いつまでも見ていたいと思わせる美しさがあった。

「GENOME7」の成功は、もちろん選手達の力によるものだ。が、おそらく、今回それらを引き出した影の功労者は、終始リングサイドから選手に鋭い視線を送り、檄を飛ばしていた宮戸優光氏の力によるところが大だと思われる。
自らが主宰するUWFスネークピットジャパンでビル・ロビンソン氏と共にストロングスタイルプロレスの根拠であるヨーロッパ伝統の格闘技術「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の継承に心血を注いでいる宮戸氏が新たにIGFのリングゼネラルマネージャーに就任したことで、氏を信頼するUインター勢の参戦も可能となり、キャッチの技術をあらためてプロレスに再注入できる道筋も立った。
さらに言うなら、宮戸氏はトレーナーとして技術を知り尽くしているだけでなく、かつてUインターの仕掛人として数々のビッグイベントを成功に導いた手腕も兼ね備えている。IGFの会場にピンと張り詰めた空気が生まれたのはその現れ。ペイパービューの実況中継の放送席から軽薄なゲストやおちゃらけたノリが消えたことも、おそらくそれと無関係ではないように思う。

追記
ちなみに3日前、後楽園ホールに初代タイガーマスク・佐山聡さんのリアルジャパンプロレスの大会を観に行った際、会場で宮戸氏とお会いした。宮戸氏とは1年ちょっと前に雑誌のインタビューでお話を伺い、そのプロレス観に感服して以来の再会。挨拶を交わした後、「このまえのIGFの大会、とてもよかったです」と言うと、「いや、まだまだです」という頼もしい答えが返ってきた。
その日は元週刊プロレス編集長のターザン山本さんとも10年か11年ぶりに会えて旧交を温めることができた。山本さんもことのほか喜んでくれて、しばし、昔、一緒に食べたすきやきの話題などで盛り上がった。こういう楽しいひとときも開放的なプロレス会場ならでは。やっぱり、プロレス観戦は生に限る(笑)。
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by leicacontax | 2008-12-07 21:25 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(22)
2008年 12月 07日
K-1のこと。IGFのこと。久々に思いきり語りたくなった。〈その1〉
久しぶりにプロレス・格闘技のことについて語ってみようと思う。
まずは、昨晩テレビ観戦したばかりの「K-1ワールドGP2008FINAL」から。
ここ数年、世代交代が叫ばれつつも、新陳代謝がうまくいかず尻すぼみな感を拭えなかったK-1GP。だが、今年の決勝トーナメントを見る限り、その点ではようやく危機を脱したように感じられた。
 
逆転KO劇連発のトーナメント準決勝までは文句無く面白かった。
それらすべてを台無しにしたバダ・ハリ選手の決勝戦反則負けについてはあまりに愚か過ぎて語る気にもならない。
ローキックの距離すら殺してしまうストレートパンチ並みの威力と伸びのある左ジャブなど、バダ・ハリ選手独特の強さやプロとしてのキャラクターの素晴らしさは一際光り輝いていただけに、いっそう裏切られたという後味の悪さが強烈に残った。

反則行為に対するジャッジの曖昧さにも不審を抱いた。
あの局面、レミー・ボンヤスキー選手のダメージの如何に関係なく、即レッドカードを出さなかったのはどう見てもおかしい。
世界的に見てK-1がプロボクシングに比べてマイナーな扱いに甘んじている最大の原因は、今回のこの件を見てもあきらかなように、興行論優先で競技としての厳正さが欠如している点に尽きる。倒れた相手へのパンチの連打や頭部への踏みつけ行為は悪意の塊でアクシデントとは訳が違う。即レッドカードが妥当だ。

一方、ボンヤスキー選手は試合続行不能に陥るほどひどいダメージを受けてはいないのではないか、という意地の悪い見方もあるようだ。
が、それはそもそもお門違い。仮にそうだったとしても、K-1がルールに則ったスポーツを謳っている以上、あそこまで逸脱した行為をする相手と試合を続ける気になれないのは当然。そんな相手と同じ土俵にさえ立ちたくないという嫌悪感を抱いたとしも、それだって人間として当り前の感情だといえよう。

ともあれ、グーカン・サキ選手、エロール・ジマーマン選手、ルスラン・カラエフ選手たちK-1第三世代が繰り広げたヘビー級の概念を破るスピード&パワーファイトは、まさに次代のK-1のトレンド。
年齢的な問題を差し引いたとしても、あきらかにK-1第一世代に属するジェロム・レ・バンナ選手のファイトは、今回台頭を果たした第三世代および第一世代との狭間に位置するボンヤスキー選手に比べて凡庸に見えた。
テレビを観ていて、「レ・バンナってこんなに平凡な選手だったっけ?」と、思わずそう呟いてしまったほどだったのだが、それほど、ボンヤスキー選手や第三世代のファイトスタイルとの違いは歴然だった。

おそらく子供の頃からキックボクシングという競技を見て育った最初の欧米人(一般の欧米人はキックというスポーツに親しむ機会が日本よりも遅かった)である彼らの世代は、ヘビー級ボクシング・コンプレックスからも端から自由なのだろう。それが重量級とは思えない自由でトリッキーなファイトスタイルにも繋がっている。私はそう見ている。
付け加えれば、彼らは総合格闘技というフリーファイトにもまったく抵抗のない最初の世代。格闘技はイマジネーションの闘いでもある。案外、初めて見た格闘技のイメージは刷り込みとなって、選手のその後のファイトスタイルを縛り付ける。
しかしながら、いまやインターネットを使えばどんなにマニアックなジャンルでも情報が収集可能であり、その気になれば実際にキックの本場であるタイへ行くことだって簡単にできる。かつては一部の人間に独占されていた情報も経験も、いまの若者はそう苦労せずに得ることが可能になった。情報格差の消滅や世界のグローバル化は、あきらかに格闘技も変えたのである。(その2へつづく)
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by leicacontax | 2008-12-07 19:14 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(0)
2008年 11月 14日
肖像写真。初代タイガーマスク/佐山サトル 〈 プロレスラー/掣圏真陰流 興義館総監 〉
関係各位から許可を取り付けることができましたので、今年の夏、週刊実話のモノクログラビア用に撮影した写真と記事をUPします。私が写真と文を担当する「傷だらけの肖像」というページは、現在、月に1度のペースで掲載。これまで他に、藤原喜明氏(プロレスラー)、藤田和之氏(プロレスラー・総合格闘家)、菊田早苗氏(総合格闘家)、緑健児氏(空手家・新極真会代表)、近藤有己氏(総合格闘家)といった格闘家、武道家の方々に登場いただいております。

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〈LEICA DIGILUX3〉プロフィール/佐山サトル(さやまさとる)‘57年、山口県出身。本名、佐山聡。’80年代初頭、初代タイガーマスクとして一世を風靡。引退後、総合格闘技シューティング(現・修斗)及び市街地型実戦武道・掣圏道(現・掣圏真陰流)創設。’05年、リアルジャパンプロレス設立。

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〈LEICA DIGILUX3〉
 
傷だらけの肖像・其の参 〜 毘沙門天を宿す覆面。

「内側から見るマスクは、ただの布切れでした」
 25年前──人気絶頂のまま突如プロレス界を去った天才・佐山サトルが語った言葉だ。
 その後、佐山は時代に先がけて総合格闘技〝修斗〟を創設するも離脱。紆余曲折を経て、近年、ついに自らが史上最高の武道と信じる〝掣圏真陰流〟の創造に至る。
 そんな佐山が3年前、〝ストロングスタイル復興〟をテーマにリアルジャパンプロレスを旗揚げ。初代タイガーマスクの勇姿を蘇らせた。
 試合後、こんな質問をした。
「今、マスクは内側からどう見えてますか?」
 虎の仮面の下から現れた汗だくの佐山は即座に答えた。
「タイガーマスクがファンと自分の大切な架け橋であることは重々承知しています。が、やっぱり内側から見えるのは布切れ。これを被れば強くなれるわけじゃないんです」
 汗まみれの覆面の裏側──その眉間には武神を意味する〝毘〟の刺繍が隠されていた。
(文中敬称略)
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by leicacontax | 2008-11-14 18:33 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(6)
2007年 09月 01日
肖像写真。
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〈LEICA DIGILUX3〉人物写真が撮りたくて、仲良くしていただいている和田良覚さんにモデルをお願いしました。殺伐としたリングで格闘家たちの生命を預かるレフェリーと、アスリートの身体能力を極限まで引き出すフィジカル・トレーナーといういずれも厳しい職業に穿たれたプロフェッショナルの顔。その迫力、少しは伝わりましたでしょうか。
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〈LEICA DIGILUX3〉和田さんは肉体的には威圧感たっぷりですが(笑)、素顔は物腰の柔らかい優しい人です。温厚篤実。義理人情に厚く、誠実な彼こそ「格闘技界の良心」だと私は思っています。笑顔の素敵な人は、いい仕事をします。

和田良覚(わだりょうがく)プロフィール
1963年2月25日、茨城県出身。174センチ94キロ。1991年、UWFインターナショナル旗揚げにレフェリーとして参加。同年5月10日、東京・後楽園ホールにおける田村潔司vs.垣原賢人で初レフェリング。その後、キングダム、リングスへ移籍。前田日明引退試合、高田延彦引退試合他、K-1、PRIDE、HERO'S等で幾多の名勝負を裁く。’04年9月、猪木事務所移籍。’06年1月、フリーランス転向(ハイパーストレングス代表)。現在、豊富な経験を活かし、フィジカル・トレーナー兼レフェリーとしてさまざまな団体やイベントに協力。プロ格闘家、プロスポーツ選手、オリンピック選手等、さまざまなアスリート達のさらなる能力開発にも一役買っている。
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by leicacontax | 2007-09-01 01:18 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(21)
2007年 07月 30日
ストロングスタイルの父、カール・ゴッチ氏の死を悼む。
〝プロレスの神様〟カール・ゴッチ氏が28日(現地時間)に亡くなった。
82歳。死因は肺炎だという(後日、大動脈瘤破裂と訂正報道があったので追記)。
もし、若き日のアントニオ猪木がゴッチ氏に教えを請わなかったならば、その後のアントニオ猪木はなかった。私達の憧れたあの〝世界一強い〟アントニオ猪木の自信の源はいうまでもなくゴッチ直伝のシュートテクニックであり、その確固たる技術をアントニオ猪木がプロレスの中心に据えたからこそ、弟子である藤原喜明、佐山聡、前田日明も強くなり、それがやがてUWFやシューティング、現在の日本の総合格闘技へと形を変えた──すべては、カール・ゴッチとアントニオ猪木の出会いから始まった。それは間違いない。

最近、総合格闘技が一般化する過程で、ショー的要素を捨てきれなかったUWFや、結局、バーリトゥードの技術一辺倒に塗り替えられてしまったシューティングを指し、上記のような事実を無視してゴッチに端を発する日本の格闘技の歴史を書き換えようという考えも出て来ているようだが、それは絶対に誤りだ。
たしかに、ゴッチ流のシュートテクニックのほとんどは現状の総合ルールでは使えない。格闘技グローブの着用が手首より先を駆使するシュートテクニックのほとんどを封じていることはアントニオ猪木もはっきり証言している。が、だからといってその技術が時代遅れや役立たずだと誰が言い切れよう。いま認められる格闘技の強さの基準は、あくまで現状のルールあってのもの。〝ノールール〟〝なんでもあり〟という総合格闘技初期の謳い文句に皆が洗脳され、あたかもそれが究極の試合形式のように多くの格闘技ファンは鵜呑みにしているが、〝ノールール〟の闘いがあんなにスポーツライクであるはずがない。私は現状の総合格闘技を強さの判定基準として否定しないし、選手達は強いと思っている。それでも、だからといって、ゴッチから伝わるプロレス流シュートテクニックを全面否定するのには納得出来ない。

ただ、問題は、プロレス流シュートテクニックはダイレクトに人間の急所に攻撃を加える完全なる裏技であり、それは観客に披露できない〝禁じ手〟だったという点。ゴッチと同時代に活躍した米国マットで史上最強といわれるダニー・ホッジは「人間の鼻をもぎとるのは簡単なことだ」とこともなげに語ったといわれるが、その言葉通り、ゴッチ流のシュートテクニックも本当に使えば相手を再起不能にする。つまり、シュートとはよくいったもので、それは目に見えない拳銃か刃(やいば)のようなもの。人前で使う事はあくまで御法度だったのだ(シュートテクニックの原点であるヨーロッパに伝わる〝キャッチ・アズ・キャッチ・キャン〟という格闘技は騎士達による徒手格闘技といわれている。そもそも技術の前提が競技のレベルではないのである)。

本来、娯楽であるプロレスにおいてシュートテクニックは絶対にリングで使われてはならない禁じ手。しかし、決して無用の長物ではなかった。実際、それを隠し持つレスラーの凄みは黙っていても観客に伝わっていた。
ストロングスタイルのプロレスとは、単純に定義すれば、シュートレスラーが行う一触即発の緊張と戦慄を孕んだプロレスのこと。シュートに自信のあるレスラーは自分の思うままに相手をコントロールして自分の面白いと思う試合をつくり、また、両者共シュートレスラーだった場合、互いに懐に刃を隠しながら主導権を争い、時には観客に気付かれない殺伐としたやりとりが行われたこともあった(「アントニオ猪木vsビル・ロビンソン」はその最たる一戦)。目に見える闘いがすべてである格闘技とは、だからそこが大きく違っていたのである。

アントニオ猪木のおかげで、私はプロレスの面白さ、格闘技の迫力を知り、いまに至っている。ストロングスタイル・プロレスの見方は、意外にも他の格闘技の目に見えない心理戦を読み取ることにも大いに役立ち、ひいては、それは私の物の見方、感じ方の大きなバックボーンにさえなっている。そう考えると、実は私も、カール・ゴッチには少なからぬ影響を受けていたことになる。

〝プロレスの神様〟の死は、私にとっても遠い出来事ではなかった。

御冥福をお祈り致します。
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by leicacontax | 2007-07-30 14:06 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(7)
2007年 06月 29日
IGF〜プロレスの可能性とは何か?
紆余曲折を経て、ついに旗揚げを迎えたIGF(イノキゲノム・フェデレーション)をペイパービュー観戦。序盤こそちぐはぐで急拵えの感を拭えなかったものの、出場が危ぶまれたブロック・レスナー、カート・アングル、そしてジョシュ・バーネット、マーク・コールマンらの活躍のおかげで見所は満載。IGFが何を目指しているのかは旗揚げ戦を観終わった今でもまだ理解不能だが、ひとつだけはっきりしたことがあった。それは格闘技であれプロレスであれ、本物は凄い! という当り前の事実だ。

途中までとくに駄目な試合はなかった。が、それでも、どうも妙な違和感があっていまひとつ乗り切れず、はじめ、私はそれを久しぶりのプロレス観戦のせいかと思ったのだが──レスナー対アングルのメインイベントを観ている途中、はっきり、違和感の正体に気付いた。

乗り切れない。しっくりこない。その引っかかりはどこから来ていたのかというと、それは以前なら十分承知の上で観ていられたプロレス独特の技を受けるという不合理のせいだった。
技の決まるカタルシスがなかったらプロレスはプロレスでなくなるし、今さらそんな初歩的な矛盾をあげつらってプロレスを否定する気はさらさらない。しかし、それでも、危険な技や痛そうな技が決まる度、どうしてそれを受けてしまうのか? そんな疑問が頭に浮かんで集中できない。つまり、何十年もプロレスを見続けてきたこの私でさえが、知らず知らずのうちに、すでに合理的で無駄のない格闘技の構造を物差しにしてプロレスを観るようになっていたと、そういうわけなのだ。最初から格闘技を見慣れている若い世代がプロレスに見向きもしないのは、したがって当然のこと。プロレス復興をテーマに旗揚げしたIGFを観ながらそんなことを考えてしまったのは、実に皮肉であった。
 
ところが、だ。そんな引っかかりはジョシュ・バーネットやマーク・コールマンの試合ぶりからはまったく感じられず、レスナー・アングル戦に至っては互いの協力がなければ決まるはずのない大技連発に驚きと爽快感さえ覚えた。これはどういうことか?
答えは簡単。彼らの肉体と確かな技術が醸し出す圧倒的説得力の前に、そんな疑問など何の意味も持たなかった──ただそれだけのことだった。
彼らが今夜披露したプロレスはそれぞれスタイルの違いこそあれあくまでプロレスであり、決して格闘技擬きのプロレスではない。バーネットのプロレスはストロングスタイルのプロレステクニックを駆使したプロフェッショナルなレスリング。格闘家コールマンは自らの原点であるアマレスのテクニックに比重を置いたクラシカルなアメリカンプロレス(意外なくらい雰囲気があって格好良かった!)。そしてレスナーとアングルは彼らの肉体とパワーでしか表現できないスケールの大きなスペクタクルプロレス。日本のレスラー達も緊張感あるプロレスを披露したとは思うが、猪木さんが新団体を旗揚げしてまで世間に伝えたかった『プロレスの自由』、『プロレスの可能性』を観客に知らしめるには程遠い内容だったように思う。とくに小川直也は、橋本真也のテーマ曲での入場といいUFO当時と少しも変わらないファイトスタイルといい、すべてが過去に向いていて『今』を感じさせず、それが残念でならなかった。

とにもかくにも、本物の凄みがジャンルを超えることを提示出来たIGFの船出は、それだけで成功だったように思う。
レスナー、アングル、バーネット、コールマンらと小川の落差は気になる。が、どうだろう、IGFが本当の意味でグローバルを目指す団体ならば、無理矢理、旧態然とした日本人エース至上主義を取る必要はどこにもない。むしろ格闘技をスタンダードに育った若い世代へのアピールを狙うのならば、PRIDEやK-1がそうであったように選手の肌の色など無意味。つねに本物の説得力を持つレスラーこそエースに据えるべき。そうでなければ、せっかく証明されたプロレスの可能性が水泡に帰してしまう。この成功を、IGFは一夜限りの祭に終わらせてはならない。(文中敬称略)
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by leicacontax | 2007-06-29 22:35 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(12)
2007年 05月 24日
失望。
さっきまで友人のカメラマンS氏と電話で話していた。
話題は今夜行われた亀田興毅選手の世界前哨戦。
本業の一方、元A級プロボクサーで現在トレーナーとして後進の育成にあたっているS氏はかなり怒り心頭で、「もう亀田選手を擁護できない」と声を震わせていた。
S氏と私はこれまで、その行儀の悪さに対するバッシングは理解しつつ、それでも亀田選手のボクサーとしての素質の高さや健気なひたむきさを擁護する立場を取って来た。が、S氏が怒るのも当然、私も今夜のようなひどい試合を観せられてはもう黙っていられない。

番組の最後、ゲストの赤井英和氏がレフェリーストップが早過ぎたのを非難していたが、あれはレフェリーの判断の甘さを指摘していたわけではない。赤井氏は多分、見え見えのKO劇にレフェリーが加担したことに対する怒りを露にしたのだろう。
試合はどう転んでも亀田興毅選手の圧勝だった。が、あの場面、相手のイルファン・オガー選手には、まだ倒れる気配はなかった。よって、私の眼にも、あのレフェリーストップは、テレビ局の望む結末(KO)を意識し過ぎたレフェリーの勇み足だったように映った。なんとも後味の悪い幕切れ。赤井氏は「KO勝利より価値のある判定勝ちもある」というようなコメントも残したが、それは精一杯のテレビ局への皮肉だったように思えてならない。

前提として2時間の放送枠の半分が芸能人総出演のバラエティ番組という、これまでさんざん視聴者から批判を受けている構成を性懲りもなく繰り返したテレビ中継のやり方にもまたもや腹が立ったが、もう、それはどうでもいい(私はバラエティ部分はチャンネルを回して他のもっと面白いバラエティ番組を見ていた)。私を激しく失望させたのは、ここのところ、せっかく基本に忠実なボクサースタイルに回帰して軽快な動きを見せていた亀田選手が、足も使わず、力任せのパンチで相手をねじ伏せようとする駄目なスタイルに戻っていたことだった。

そもそも今回のマッチメイクはゴールデンタイムの2時間枠で放送するようなカードではないし、世界前哨戦はあくまで選手が抱えている技術的精神的な課題を克服するステップであり、噛ませ犬を連れてきてこれみよがしのKO劇を演出したところで選手に本当の意味でメリットはない。案の定、テレビ局が望む派手なKOを意識するあまり、亀田選手の闘いは到底ボクシングとは程遠い内容になってしまった。
いくら亀田選手にパワーがあるからといって、フライ級はあくまでスピードとタイミングで相手を倒す階級。オガー選手にしてもインドネシアのチャンピオン。ディフェンスを知らないド素人相手ならともかく、一国のボクシングチャンピオンをパワーだけでねじ伏せるのは無理というものだ。おかげで亀田選手の切れのいいジャブもワンツーもまったく影をひそめ、ただいじめっ子が虐められっ子を追い回してどつくだけの大味な試合になってしまった。本当に3階級制覇という大望を抱いているのなら、今、この段階でこんな粗雑な試合をしている場合ではないはず。これが亀田本来のボクシングだと言うのなら、残念ながら、おそらく、もうこの先に栄光の物語は待っていない。

KO勝利がボクシングの華であることは間違いない。が、KOという結果ならなんでも観客を満足させるわけではない。少なくとも、私は両の拳しか使えないというがんじがらめのルールに縛られながら、それでも全知全能を傾けて何千何万の確率でしか起らないKOという最高の結末を目指して闘うプロセスにこそ心を揺さぶられる。安易なK0ショーで視聴者が喜ぶと思ったら大間違い。馬鹿にしてもらっては困る。

最後に、タイトルマッチでもない試合に国歌吹奏とはどういうことか?
私は思想的には右でも左でもない。それでも、くそみそ一緒のそういったけじめのない演出には苛立ちを感じる。テレビ局にとって亀田ファミリーの試合は効率よく視聴率を稼げる優良コンテンツなのだろう。だが、その前にあくまでスポーツとしてのボクシング中継であるべきではないか。
そんな当り前のことがいつまで経っても実現しないのであれば、仕方ない、私も亀田ファミリーの試合を見るのはやめにするしかない。そして見ない以上は、もう擁護もできない。
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by leicacontax | 2007-05-24 00:47 | プロレス/格闘技/ボクシング | Comments(4)