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久しぶりの歌舞伎座〜その2

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前回「久しぶりの歌舞伎座」のつづき。
目的は團十郎の「外郎売」。正直、他の演目にはたいして興味はなかったのだが、なかなかどうして、「江戸の夕映」「権三と助十」もいい芝居だった。
ちなみに、歌舞伎というと役者たちは過去の芸を代々伝承しているだけというイメージがあるがそんなことはない。明治以降も現在に至るまで、つねに歌舞伎座の舞台には新作がかけられ続けている。伝統とは伝承だけに非ず。歌舞伎の面白さは江戸文化を媒介にした過去と現在の共存にある。

「江戸の夕映」は大佛次郎(おさらぎじろう)による戦後の作品。出演は市川海老蔵、尾上松緑、尾上菊之助他。元々、この演目の戯曲は彼らの祖父である十一代目市川團十郎、二代目尾上松緑、七代目尾上梅幸のために〝あて書き〟(まずキャスティングありきで、役者のイメージに合わせてシナリオを書くこと。三谷幸喜作品もその手法で書かれているという)されたもの。そして、今回の演出は当代の團十郎(團十郎は演出家としても活躍している)。ある意味、実に親子三代の共演。歌舞伎ならではの歴史のなせる小さな奇跡だ。
時代は明治。江戸が東京と名を改めた頃。松緑と海老蔵が演じる主人公たちは、戦いに敗れた幕府の若い旗本。早々に武士のプライドを捨てて気ままに生きる松緑演じる大吉と、最後の最後まで官軍に抵抗したものの敗れ、行き場を失い、死ぬ事も叶わず苦渋に満ちた日々を送る海老蔵演じる小六。価値観の崩壊を経て、真逆の人生を歩みだした若者たちと彼らを取り巻くさまざまな関係が、静かに、囁くように語られていく。細密で写実的。歌舞伎というよりそれは西洋演劇なのだが、陽の松緑と陰の海老蔵のコントラストが淡々とした場面の中で滲むように浮かび上がっていくさまはまるで水墨画のようだった。
海老蔵は豪放磊落なイメージがあるが、むしろ苦悩や屈折がよく似合う。祖父に生き写しといわれる海老蔵は、きっとこの芝居でもそれを証明したに違いない。演出にあたった父・團十郎は、どんな思いでその姿を見つめていたのだろう。

昼の休憩を挟んで2番目の演目は「雷船頭」。
尾上松緑による舞踊。日本舞踊の家元でもある松緑もまた祖父譲りの柔らかくてスケールの大きな踊りをする。天性の愛嬌もあって、一緒に踊った、空から落ちて来た雷役の尾上右近(岡村研佑改め)との掛け合いも楽しかった。それにしても、右近はまだ13歳。しかも、観る度に上手くなっている。歌舞伎の素晴らしさは、つねに未来を見据えた人材育成を怠らない点にもある。〝希望〟が観る者を安心させるのだ。

「外郎売」が無事に終わり、最後の演目。
「権三と助十」は歌舞伎というより落語によくあるような長屋の人情話。歌舞伎には落語を原作にした演目がけっこうあって、少し前にテレビで人気を集めた「タイガー&ドラゴン」でもモチーフにしていた「芝浜革財布」などもそれにあたる。
主役の尾上菊五郎と坂東三津五郎は抜群に巧かった。いや、むしろ、二人の演技は技巧を感じさせない。その時代に生きている人間のような息遣い。自然なのだ。歌舞伎も落語も、江戸情緒を醸し出せる演者はどんどん少なくなっていると聞く。昭和まではまだ下町の江戸の感性を知る人も少なくなかったというが・・・この手の芝居から時代のリアリティが消えたらただの軽演劇。歌舞伎ではなくなってしまう。むしろ〝型〟が厳密に決まっている古典的演目より、こういった庶民の〝粋〟や〝心意気〟をテーマにした軽妙な芝居の方が継承は困難なのかもしれない。
いずれにしても、この日観たどの演目も、舞台上は客席に劣らない歓びや活気が漲って華やいでいた。團十郎復帰。一番喜んでいるのは、他でもない、舞台に立つ歌舞伎役者たちなのだろう。〝成田屋〟の存在は、それほどに大きい。
(文中敬称略。写真は上、歌舞伎座正面の屋根。下、歌舞伎座の裏に奉られている〝歌舞伎稲荷大明神〟)
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by leicacontax | 2006-05-09 03:26 | 歌舞伎/演劇 | Comments(0)

現実は精巧に造られた夢である。〈長谷川りん二郎の言葉〉


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